空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

簡単に子どもの信頼を損ねる方法

久しぶりに恐ろしい夢を見た。恐ろしいというか冷や汗もの。子どもの心が自分から離れていくことがよく分かった。

 

表題の件、結論から言うと、

 

「子どもを見ずに自分勝手な思いを押し付けること」

 

これに尽きる。

 

以下からは夢の話。

なぜか鮮明に覚えている。

 

 

舞台は教室。

僕は小学校6年の担任だと思われる。

 

教室に入り教卓にいる僕を天井から眺めているもう1人の自分。

 

恐らく、学級開き2日目の雰囲気。

子どもたちの表情を見ると、全体的にふわふわとした感じがあり、僕の方に視線が集まっていないことがよく分かる。

 

緊張感がないなと感じたのであろう僕は、開口一番にこう言い放った。

 

「全員起立!あぁ、全員揃ってないなぁ。着席!」と座らせる。

 

そしてもう一度「全員起立!…」と同じ下りを繰り返す。

 

 

次第に一部の子達から、「はぁ〜、もうだるいってぇ」という声が聞こえるがおかまいなし。今は締めないと!でも思っているのだろうか。

 

「おっ、やっと気持ちがそろったな。着席。立つ時座る時にざっ、ざっと音したやろ?音が揃うってことは気持ちが揃わないとできないことやねんで」

 

そして、僕はこんなことを語り出した。

 

「もう一つ揃えてほしいことがある。それは何か分かる?先生からは君たちの表情がよく見える。視線がちゃんと先生の方に向けている人は話をちゃんと聞いてくれている人だな。先生は君たちの表情で、どんな気持ちで聴こうとしているか、態度を判断するから。つまり揃えて欲しいのは聴く気持ちだよ。(周りを見てから。話を聞いてなさそうな子を名指しで) だから言ってるやん。こっち向けってぇ〜。損だってそんな聴き方。できないの?」

 

名指しされたその子が僕を見てこう言い放つ。

 

「もういいって!ほんまだるいわ」

 

その瞬間目が覚めた。

 

子どもの心を掴みきれていない、心が不安になったら、こんな語りをしてしまうのか。いや、そんなはずはない。ただ、僕が子どもの立場だったら同じ気持ちを抱くだろう。

 

久しく子どもたちと話をしていない。

だからかな、こんな夢見たの。

子どもはたとえどんなに聡明でも、導きを必要とする

最近何度も読み返している本。

 

子どもにいちばん教えたいこと―将来を大きく変える理想の教育

子どもにいちばん教えたいこと―将来を大きく変える理想の教育

 

 

3章『読書を自分のもにする』

ここでは、リーディングワークショップのような取り組み内容について記載があり、読書家を育てるために必要なこと、読書家になることで生まれる恩恵について語られています。うんうんと頷きながら読んでいるのですが、この章を読むたびに立ち止まってしまう言葉があるのです。

 

子どもはたとえどんなに聡明でも、導きを必要とする。食べ物を選択する場合も、本を選択する場合も、子どもたちが正しい道を見出すのを大人が助けてやらなければならない。

 

 この導きという言葉。

ここ2年間『学び合い』と言う実践に取り組んできて、葛藤した言葉でした。

 

『学び合い』では教師の役割である教えるという行為を子どもたちに委ねます。「一人も見捨てず、全員で課題を達成する」という大目標に向かって、全員で力を合わせることを求める実践です。そのため、私が自分から動きだせない子の存在に気付いていることがあっても、私からは声をかけません。全員達成のために助け合うのは子どもたちの役目だからです。よく言われる「ある子を先生が助けると、その子をサポートするのは先生の役割だと思われてしまう」という状況を避けるためでもありました。

 

ですから、動き出せない子(自分から教えてを言えない、解き方が分からず困っている)がいた場合は、その子の動きや周りの子たちがどう働きかけるのか、子どもたちの様子を見守っていたのです。それで、周りの子たちがサポートすることでつながりが生まれるケースもありました。私が動き出さなくて良かったと思う場面も少なくはなかったのです。

 

でも、自分の中に違和感が残ったままなのです。

 

それは放課後の出来事でした。『学び合い』を支持するある子にこのような質問をされたのです。

 

「先生って作家の時間や読書家の時間、体育、図工とかは積極的にアドバイスしてくれるよね。算数や社会(『学び合い』)では何でせえへんの?気が付いたことはアドバイスしてほしいんやけど」

 

この言葉を聞いて「そう言われたらそやなぁ。何でやろう。」と感じたことは覚えています。肝心の答えは「目的が違って・・・」とかしどろもどろ答えていたと思うのですが、それぞれの実践で自分の在り方にブレがあったのでしょう。

 

この本を読み返すと、この時の記憶が蘇ってしまいます。きっとこれだけ引っかかる部分というのは、真剣に向き合わないといけない部分なのかなと思います。

 

 

余裕って大事だ

息子を保育園に送るとき、普段は時間をかけて目にしないものをじっくり見ることができています。

 

例えば

 

『葉っぱ』

『花』

 

そういえば、いろんな形や色があるよなぁ。

「この花の名前は?」って聞かれたら答えられんぞ…

やばいやばい(笑)

 

『クローバー』

 

うーん、四つ葉のクローバーって中々見つからないもんだ。

 

『だんごむし』

 

何年ぶりだろう、こんなにじっくり見たの。

「飼いたい」って持って帰ってきたらどうしよう。

 

『そら』

 

「あおーあおー。」と息子が言えば、今日は晴れなんです。

 

『自分の服と同じいろの看板』

いっしょ、いっしょ!とつぶやく。色の区別がついてきたんだ。

 

通勤前の送り迎えではないから、のんびり過ごせるこの時間。

余裕ってあった方がいいものです。

 

今は休暇を取っているからだけど、このゆったりとした感覚を忘れずに、

 

復帰後の慌ただしい中でも、『ゆっくりな時』を作りたいなーなんて思いました。

 

息子は何も慌てていません。

 

人はいつから周りに急かされたり、

 

慌てて過ごしたりするようになるのでしょう。

 

仕方ないことなのかなぁ。

 

課題づくり~B問題と考えたくなる仕掛け~

6月復帰に向け、算数の課題づくりを進めています。

作りながら感じたのは、アウトプット型の課題(~図や文章で説明しなさい)は学力状況調査のB問題と似ているということ。

 

例えば、6年生の分数のかけ算・わり算であればこんな感じ。

 

ひろしさんは「2/3mで3/4㎏の鉄棒があります。この鉄棒1mでは何kgでしょうか」の問題に当てはまる式を考えました。この問題に当てはまる式は、次の①~④の4つの中のどれですか。また、その番号を選んだ理由を言葉や式・図・表などを使い説明しなさい。

 

昨年度はこのような課題を多用していました。

条件は2つ。

①記述式で説明を求める

②式や図・表などを使う

 

この①②を単元を通して、繰り返し何度も行います。特に②の図や表などを子どもたちが自在に使えるようになるためにはそれなりの回数が必要です。それを単元内に同じような課題を繰り返し設定して、単元を通して練習していくのです。分数のかけ算とわり算の時数は20時間ありますから。

 

一方、悩みもあります。導入部です。

短い語りを意識してきたために、導入で興味関心を引きつける工夫があまりできていませんでした。私は導入部分の語りを「価値のインストラクション」と呼んでいますが、短い語りで子どもたちに学ぶ価値を伝えたり、必要性を持たせるのは簡単なことではありません。時には価値の押しつけのような感じになってしまっていることもありました。

 

でも、導入部でその教科が持つ人生レベルの価値や必要性は語れなくとも、つい考えたくなる仕掛け作りは短い導入部でも可能だと思えるようになりました。ヒントは尾崎正彦先生の本から。そこから得た知恵を課題づくりに生かしていきます。

 

読書のあれこれ~選書で大切なこと~

 

読み聞かせは魔法!

読み聞かせは魔法!

 

 

2年目から信頼ベースの学級ファシリテーションの実践をもとに、絵本の対話型読み聞かせに挑戦していました。上手くいっているのかいってないのかもよく分かりません。もう少し読み聞かせについて学びたいなぁと思っていた矢先、この本と出合い、ひとめ惚れで購入!

 

どうやら絵本の読み聞かせは日本と欧米では目的も方法も大分と違うようです。まず本を選ぶにあたって大切なこと。以下、本書から引用です。

 

選書のときは、最低でも、次の二つの問いに答えられるものにしてください。

①自分自身が面白いと思える内容か

②子どもたちにぜひとも紹介したい内容か

 

 

 私のこれまでの選書というと、教育書で紹介された絵本を読むことが多く、①②を満たすような本を「自ら選ぶ」ことはほとんどありませんでした。ただ、紹介されていた本でも、自分がいまいちだなぁと感じるものは結構あって、子どもたちの反応も微妙だったことはありました。やはり、自分が面白いと思ってなかったら、生き生きとした読みはできないし、子どもたちにもその気持ちは伝わってしまうものなのです。これは経験上もわかる。

 

やはり自分から絵本を手に取り、ストーリーにしっかりと浸って、自分のお気に入りの本をストックしていくというプロセスを踏むことが、魅力的な読み聞かせには欠かせないのでしょう。他人のおすすめからだけではなく、自分の面白いを紹介できる先生でいたいよね。

 

ただ、そのためには時間をつくる努力は必要です。だって本の紹介をされている方々は、それだけたくさんの本を手に取って選んでいるわけですから。

 

自分の感覚をもっと大事にしたい。

誰かの感覚じゃなく、自分の感覚を。

そのために時間をかけて本と出会うこと。


少しは努力しないとねぇ〜

子育ては思い通りにならない。

認定こども園に通う息子。まもなく2歳です。

 

大好きだった先生からクラス担任が変わり、新たな友だちも増え、急激に変化した環境にまだまだ戸惑いを隠せません。朝のあいさつも新担任の先生とは、中々目を合わせることができず。あ~、申し訳ないという気持ちがありました。

 

 

先週の金曜日の出来事。

息子はさよならをするときに、先生や友達とハイタッチをしてから帰るのですが、まだ新担任の先生とだけ、バイバイのハイタッチができていませんでした。

 

それを見た私は「○○先生ともハイタッチしないと。ほらいっていって」と背中を押したのです。新しい先生にも早く慣れてほしい一心だったのでしょう。

 

そして本日。前担任の先生からこんな言葉をかけてもらいました。

 

先生「お父さん、無理してさよならのハイタッチしなくてもいいですよ。もう十分がんばってますから。~させないと!と思えば思うほど、子どもはしないものです。自然体でいいんですよ」と。

 

言われた瞬間、はっとしました。

 

私「あぁ、そうですよね・・・。自分の子だから、少し過干渉になっていたのかもしれません。学校の先生としてだったら、そうでもないのになぁ」

 

先生「そんなものですよ。お父さんから、なんとかしなきゃ!という雰囲気がでていたので、ちょっと気になってしまって。子育てなんて思い通りになりませんからね~」

 

子育ては思い通りにならない。

 

小学校の先生として、「子どもをコントロールしない」という意識はある方だと思ってました。自分の教育観としても主張していることです。

 

それが自分の子どものこととなると・・・何を私は焦っていたのだろう。

信頼関係もないのにハイタッチなんてできやしないよね。

 

そういえば最近、

「~しなさい」「今は~な時間やろ!」とか言ってたなぁ・・・

 

「自然体の息子さんでいいんですから」

先生の言葉が何度もよみがえります。

 

みなさんはどうでしょう?

関係性が0の状態から、いきなり50、100のことを求めていませんか?

 

信頼があるからこそ、成り立つもの。

焦らず積み重ねていきたいですよね。

 

本気と度胸とそれから工夫

『学び合い』の授業見学に行ってきました。

ここ最近のモヤモヤはね、子どもたちの実態によって『学び合い』ができるのか否かってところ。

整列もできない。
話も聞けない。

そんな子どもたちにまずすることは…?

できていない子たちへの指導?
「こら、そこ!先生話してるやろっ!」とその場をコントロール

話を「聴く」ための大切さを説く?
「聴く」ってさぁ実は耳だけじゃなくて…

一斉授業から徐々に学びの責任を子どもたちに移行させていくスモールステップを刻む?

昨年度の序盤はそんなことを考えていた。でもその前に確認しよう。

自分はなぜ『学び合い』がしたいのかを。

1人も見捨てたくない。本気で全員に幸せになってほしいという願いがあるか。自分に反発する人がいても、ぶれずにその願いを届ける度胸はあるか。

課題設定や子どもの看取り、語りかけの話術、その内容など、求められるテクニックは多々あります。

でも、それらは全員が出来るようになろう!という教師の本気の願いがあってこそ成り立つもの。その心が子どもたちの学びに拍車をかけるんだと思います。

あとは本気だけど伝わらなかったら意味がないので、子どもたちに分かりやすく伝えること。上位の2割を動かすこと。

やっぱりシンプルでした。でも、認めたくなかったけど誰でもできる実践ではないなとも思いました。


うーん、やっぱりやめた

 『学び合い』を広めるための方法として、「課題集」をつくったらいいのではという思いがあった。


でもここ最近は、課題のリストを作ったところで何になるのだろうと思うようになっている。初めての方には便利なんだろうけど。当初と違って躊躇している自分がいる。


半年間でストックした国算社の単元表もあったので、これらを公開すれば、『学び合い』実践者のだれかに役立つかもしれないと結構前向きに考えていた。でも本当に役立つのか。「方法」として認識されてしまわないだろうか。「課題集通りやったけど、うまくいきませんでした」で終わりにならないだろうか。


そもそも、自分にそこまでの影響力がないので、こんな心配をすること自体が無駄かもしれないが。

 

実践というのは、本当は個別的なもので、その教室の文化とその実践者の経験値など、いろいろなものがかけ合わさって出来上がるもの。そもそもぼくは表面的な部分を広めたいんじゃない。

 

エピソードを語り合って見えてくるもの。対話から生まれるもの。

それを大切にしていきたいんだ。

 

この前のリフレクションの会で、そのことを再確認できた。

 

だから、課題リストは自分のために作るけど公開はしない。

きっとその方がいい。

 

 

枠を外してみます

枠というのは、教育観の枠。

 

今の自分は『学び合い』に内包されている感じ。

実は自分はそうじゃないと思っていた。

『学び合い』だけでなく、いろんなことから学ぶことができていると。

 

『学び合い』は考え方と言われている。

「一人も見捨てないで、全員でできるようになろう」という純粋な幸せを願うもの。

 

だからこそ、その考え方だけから生まれる実践というものは、

気を付けないと小さな枠に留まってしまう気がしている。

個性が強いと言えばいいのか。

あくまで自分の場合だ。

 

全国津々浦々には、実に様々な文化を持った学校がある。

自分の信じる枠がそこにぴたっとはまることもあれば、そうじゃないことも必ずある。

 

今の自分は偏っている。

だから、しばらくその枠を外してみることにする。

 

勘違いしてほしくないのは、枠を外しはするが捨てるということではない。

私の信念は『学び合い』の考えと重なっているから。

自分にとってかけがえのないもの。

ニュアンスとしては、そっと自分の手元に置く感じ。

 

幸いなことに自分に足りないものには薄々気がついてきている。

 

『安心して過ごせる』

『誰もが成長できる』

そんな学びの場をつくるために大切なことは何か。

 

もう一度、学びなおします。

 

 

 

 

ズレを感じたらどうするか

子どもの姿と自分の実践や求めていることに「ズレ」がでる。つまり、うまくいっていない状態。責任の移行モデルの話で言えば、どちらも役目を放棄してしまっている状態。こんな話が今日のリフレクションの会で出てきました。

 

自分が変わる。

三者、メンターの視点を入れる。

という意見があった。どれも大切。

 

では、自分がズレを感じたらどうするか・・・僕なら

 

謝ります「ごめん」って。

 

 

 ただ謝るだけじゃなくて、自分は何をしたかったのか、自分が持っていたビジョンを伝えるし、その上で子どもの意見を聞いて、ずれているところを何度も擦り合わせる。一昨年も昨年度もそうだったかなぁ。何回か謝りました。で、「どう思った?どうしたい?」って聞いてたかな。

 

ズレを修正する。

もう一度スタートを切る上で大切なことってそういうことなんじゃないかな。

 

じゃないとチャレンジなんてできないしねぇ。


あー、まだ整理できてないや。

きっとそんな単純じゃねぇよ!と言われるかもしれんが、大切だと思うから書いておこう。