空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

環境整備

教師ができる最大限の環境整備とは・・・どんなものでしょう。

 

現在進行中の6年算数「角柱と円柱の体積」では、子どもたちが好きなタイミングでデジタル教科書の等積変形の動画を再生したり、具体物に触れたりする機会をつくっています。

 

 

 

昨年はここまでできていなかった。というかどんな風にやっていたのだろう・・・

あっ、昨年のこの時期はまだ一斉授業をやっていたんですよね。『学び合い』は9月からでしたら。通りで思い出せないわけだ。

 

さて、ここまでは私がつくる環境。それに加えて、

 

「子どもたちがつくる環境」という視点も忘れずに持っておきたい。

 

では、子どもたちがつくる環境ってどんなもの?

 

 

とりあえず、ここまで。

説明する必要性あった?

表題の件は自分への問いかけです。円の面積と円周の求め方をおさらいするために4分間時間を使いました。その後課題の説明とアドバイスで計7分。

最初の3分の説明が「わかる子」もいれば「分からない子」もいます。読むだけで理解できる子もいれば、読む→対話の流れで理解する子もいるだろし、視覚と聴覚が組み合わさった方が分かりよい子だっています。分かり方は実に多様なのです。

もしかしたら、最初の説明は全員にフィットするものではないかもしれません。あの4分間がちんぷんかんぷん、いまいちな時間だった子がいた可能性がある。であれば、説明は事前にワークシートに書いておき、少しでも学び合う時間にあててあげたほうが良かったかも!

と放課後は授業の様子を振り返りながら、悶々としてました。説明するときとあるけれど、それによって長い時間が奪われてしまう弊害だってある。攻略法なんてないが「説明すれば分かる」という思い込みはすてないといけない。

ちょいと戦略を練ります。担外としての。

今なら共感できる

 「突き詰めて集団を育てれば、教えずとも子どもたちは学び合って課題を達成できる。」


 あなたがやっていることは『学び合い』ではない騒動から1週間。今、この言葉の意味が徐々に自分の中で腹落ちしている。


しかし「突き詰めて集団を育てる」とは、メンバーの変動も多い習熟担当の立場では中々難しいこと。やっぱり担任であれば…と思ってしまう。そんな自分にできることは、願い語ることと、子どもたちが豊かに学べる環境作り。ただ、この環境作りがくせものなのだ。最適な環境作りとは何なのだろうか。何をどこまで準備すれば良いのだろうか。


今から5年前、まだ通信学生だった私は本屋で『学び合い』の本と出会い、この目で実践を見たい!と西川先生にメールを送った。そして、関西ならばこの方とご紹介頂いた先生にアポをとり、期待を胸にその学校へと向かった。


授業を見た感想を言うと、先生の真意も子どもたちの様子も、私には全く見えなかった。「はい、どうぞ」以外、何も語らない先生の姿が理解できなかった。この先生は一体何をしたいのだろう?と授業後の質問も全く思いつかず、その先生の言葉もよく分からなかった。



でも今は、今なら共感できる。



振り返れば、あの『学び合い』の授業には、ワークシートにも教室環境にもたくさんの工夫があった。先生が話たいことが全て詰まったワークシート、いつでも情報にアクセスできる環境、等積変化がフラッシュで表示される足場かけなどなど、当時の僕はそれすら全く気づかず、「先生は放任でただの自習やん」と感じていた。本当に何も見えてなかった。ちなみに、その先生は僕と同じく習熟度別算数の担当だった。今の自分があの授業を見れば、集団を成長させようと真剣な眼差しで子どもたちを見つめる先生の姿、子どもたちを信じた結果生まれた環境に共感できると思う。


「あなたのは『学び合い』ではない」と言いたくなる気持ちも少し分かるかな。言われた時はイラっとしたけど…笑


まだまだ進化できる。

天井を突き上げてもがいてみるか。

まだプレイヤーでいたい

今日は単元テストのため、授業がありませんでした。空き時間は次の単元のプリントや教材の作成。職員室と印刷室を行ったり来たり。これはこれで仕事なのでいいんだけど、やっぱりね、子どもたちとの関わりがほしくなります。


そんな私はあまりにも子どもたちとの時間が少ないことに絶えられず、休み時間は6年生のみんな遊びにお邪魔しました。楽しかったぁ〜笑


私はまだまだプレイヤーでいたい。そんなことを感じた1日でした。


明日から、また授業が始まります。

幸せです。



決まり文句の語りはいらない。

 私は学校で学ぶ意味を、出来る限り分かりやすい言葉で子どもたちに伝えるようにしています。ですが、その言葉が「本気で」「全員で」といううわべだけの言葉ばかりになると、子どもたちは教師の覚悟の薄さをすぐに見抜くものです。


先日ふるTさんと語る言葉について意見を交わしました。ふるTさんは僕の進むべき道を示してくれるメンター的存在です(勝手にそのような存在にさせて頂いています)



気がつくと同じ言葉、いや綺麗な言葉ばかりに並べてしまうことがあります。1、2年目は特にそうでした。でもそれでは言葉を投げるだけになってしまうのです。ふるTさんの言葉を借りれば、話す=放つ、語る=かたちづくる。なるほど。子どもが受け取れる形に変えていく必要があると改めて考え直しました。



行き帰りの電車内でも考えます。子どもたちに「全員がわかる」とはどういうことなのか、結果が全てではなく何が大切なのか。本を読んでいて思いつけば、すぐにメモです。



 自分が伝えようとする言葉の奥底に潜って言葉の真意をつかみ、綺麗事では済まされない、リアルな部分も私は伝えるべきだと考えます。なぜなら自分が語る言葉を実現しようとすれば、必ず喜びや葛藤を経験するからです。1人の大人として夢を語ることはもちろん大切。でも、それだけでは自分の願いの薄さを露呈するだけになると思うんだよね。


遠慮したらあかんね

教師の腹を子どもたちに見せる。教師として子どもたちと関わる上で大切にしていることです。


というのは、昨日子どもたちに謝ったんです。担任じゃないからという理由で、実は遠慮していたことを。担任じゃないを言い訳に、伝えるべきことを伝えなかったことを。でも、君たちの大切な時間を頂いてることを考えれば、それではダメだと気づいた。悪かったと。



その後に改めて伝えました。



自分も仲間も大切にしよう。自分にできることを精一杯やろう。学校で勉強する以上、先生はみんながわかった!と言える授業を目指したい。それを全員が本気で力を合わせて目指す事が学校に来ることの意味だって思ってる、と。



習熟度別だから、次回のクラス選択で僕の授業を選ぶ子達が増えるかもしれないし、減るかもしれない。でもご機嫌とりで遠慮するのは違うなと思ったしそれでは失礼。


とはいえ、久しぶりだ。こんなにど真ん中ストレートを投げたのは笑

去年とは違うからこそ…

 担外という立場は担任として『学び合い』を実践していたときとはやはり勝手が違います。関わる時間に圧倒的な差があります。


担任のときは他教科の時間や振り返りジャーナル、休み時間の会話など、信頼を積み重ねるチャンスがたくさんありました。また係活動やプロジェクトアドベンチャーなどで子どもたちの関わりを広げるなど、担任であればいろんな方向からアプローチができます。


それが今はありません。中学校や高校の教科専門で『学び合い』を実践されている方ってすごいなぁと今更ながら感心しています。基本的なことは変わりないんですけど、小学校の担任って改めて特殊な存在だなぁと思ってしまいました。


ではどうするか?


現段階では課題づくりと自分のあり方がポイントかなぁと考えています。具体的には、4月に見学させて頂いた福島先生の『学び合い』課題プリントの工夫と自分が子どもたちに求める本気度の2つ。テクニック面と気持ちかな?ちょっと修正してみます。

おっ?ストーミング?

 子どもたちの学び合う関係性がちょーっと変化してきました。男女の交流が生まれたり、小さな相談が増えてきたり、良い雰囲気です。


ただ、教える側に回っていた子たちからはこんなクレームも…


「ちゃんと教えてるのに、ふざけるねん。あいつやる気ないんなかぁ〜」


「関係のない話ばっかしてるねん。あのままじゃやばいで」



(おっ、そろそろストーミングに入ってきた?いやまだ早いかなぁ〜)


と内心ニヤニヤしながら、


「そっかぁ。でどうする?」

「どうしたらいいと思う?」


そんなやり取りを繰り返していると、いつの間にか最後の語り。


「真面目に話してるのに、いつもふざけて返す大人って嫌でしょ?あなたが話を聞かないのはやる気がないからでしょ?と決めつけられるのも嫌だよねぇ。片方だけじゃなくて、お互いに変われるといいよなぁ。どうすれば、この人を頼りにしたい!この人を助けてあげたい!って思ってもらえるんだろう?自分の振る舞い方振り返ってみようよ。」


「今とても大切な時期だよ。ケンカも起きるかもしれないね。でも、君たちはもっといいチームになれる。大丈夫だよ。」


あるクラスにはこんな感じで、とあるクラスには「甘い!」と語り、その時に伝えるべき言葉を子どもの姿から見つけ出す。


集団の成長としては欠かせない、かつ難しい時期にさしかかってきたかな?



子どもの姿を見つめる

f:id:metch96:20180620072847j:plain


授業中に使うメモです。私の授業では最初の課題説明+語りの後に子どもたちの活動時間が35分ほどあります。その様子をメモしながら、最後に子どもたちにかける言葉を選びます。ここで個別指導ばかりになると、子どもの姿が見えなくなってしまいます。ですから、できるだけ全体を見渡せる位置に立ち、子どもたちの目線や会話に耳を傾けています。


しかし、教師というのものは、元来困っている子がいると「私が教えてあげないと」となりがちです。今でも葛藤があるときがありますが、その気持ちをぐっとこらえて、その子や周りが動くタイミングを待ちます。なぜなら、毎回教師が教えるという手段を取れば、その子は自分から援助希求ができない子になってしまうかもしれません。自分から「分からない」と発信できない、そもそも質問の仕方が分からない場合もあるので、丁寧な見取りと手立てが必要になってきます。


ともかく、子どもたちに時間を委ねないと、良いところも伸び代も見えないもの。教師主導だけでは見落としてしまいがちな部分に、もうワンランク上の集団に成長するためのヒントがあると考えています。