空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

国語×協同学習の研究日記①「スタート!」

私の最大の弱点は国語!(副教科は・・・棚において)

 

『学び合い』の実践でも国語はあまりイメージがわかず、その場だけを取り繕った協同的な学習や角っこをかじったようなRW・WWしかしてきませんでした。さすがにこのままの力で教師を続けていくのはあまりにもお粗末というレベル。子どもたちにも国語の力はつきません。ですから、「国語×協同学習」というテーマで、国語の学び直しを決意しました。

 

本blogは『学び合い』の実践を発信することが目的ですが、それと同時並行で国語の学び直しについても記事をあげていきます。ほんのささいなことでも自分が勉強した事実は記していくつもりです。お暇があれば読んでください。

 

では、早速。今日の朝活(4時30分~5時15分)

学習指導要領の第二章。「国語科の目標及び内容」を精読しました。これまで物語文・説明文を「どう教えるか」という方法レベルは日々の授業や研究授業の折に考えてきました。私に抜けているのは、「なぜ国語を学ぶのか」です。生きる力の育成のために、国語科にどのような目標があるのかをまず把握する必要があります。

 

教科の目標は以下の通り

 

第1節 国語科の目標

言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおりに育成することを目指す。

(1)日常生活に必要な国語について、その特質を理解し適切に使うことができるようにする。

(2)日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め、思考力や想像力を養う。

(3)言葉がもつよさを認識するとともに、言語感覚を養い、国語の大切さを自覚し、国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

*1

 

目標を読むだけでも、頭の中に問いが生まれます。無知なだけですが・・・

日常生活に必要な国語って(そもそもどんなこと?)

人との関わりの中で伝え合う力(どんな場面、どのように?)

言葉がもつよさ(教師が教えるだけでは豊かにならないよね)

 

今日はここまで。まとめる時間がなーい。

息子を起こしてきます!

 

※以下、学び直しのために購入した本。この3冊以外にもありますが、通勤時間に何度も読んでいます。

 

白石範孝の国語授業の教科書

白石範孝の国語授業の教科書

 

 

ゼロから学べる小学校国語科授業づくり

ゼロから学べる小学校国語科授業づくり

 

 

 



 

*1:小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 国語編

他者の思考に乗っかってるだけ

先生とはどのような人なのでしょう?

 

twitterでそのような呟きを見て、思い出したことがあります。

 

学生のときに、「先生とは?」テーマを自問自答したときがあります。きっかけは、先生(教師)としてのあり方に迷いを持ち、思考錯誤している方のお話を聞いたり、その方の著書を読んだり…

簡単に言うと他者の思考錯誤に乗っかっていただけでした。

 

「教師は子どもたちをコントロールしようとする。支配欲が強い」

「教師はファシリテータであるべきだ」

「子どもたちに任せるべきだ」

「教師が教えてばかりでは子どもたちは受け身になる」

「先生という肩書きを捨てたい。1人の人としてどうあるかが大切だ」

 

もちろん、それ自体に悪いことはありません。日々いろんなものに影響を受けながら、人は学び変わっていくものですから。

 

ただ、私自身経験あるんですよ。教師としての人生も始まったばかりなのに、だれかの言葉を借りて「誰かのあり方」を信じてしまうことが。で、一丁前に言うわけです。「教育は、先生とはこうあるべきだ。」って。さらには、「僕、先生って呼ばれるのに違和感があって、〇〇ちゃんとか〇〇っちでいいんす!1人の人としてありたいというか」とか。

 

そんな言葉を聞くとつい思ってしまいます。「それ、ほんまにそう思ってんの?あなた自身の言葉なの?」と。

 

数十年の研究や実践の末に手に入れた納得解と「あのすごい先生がいってるんだ!俺もそう思ってたんだ。やっぱりそうあるべきだよな」って手に入れた解は全く異なるもの。(これは解にもなってないか) そこにその人なりのエピソードがあって、それがその解と重なるならいいけど。

 

巨人の肩に乗って、遠くを見つめることって大切。間違いなく。でも、目の前の景色は、巨人の肩を降りた後に見えるものでしょう。

 

だれかの言葉を借りて「〇〇だ」と信じてしまうのは怖い。それに無自覚であると嫌だなぁって改めて自分に言い聞かせてます。

 

 

任せることで起きること

子どもたちに任せると実にいろんなことが起きます。教えてもらえて嬉しかったり、教えてるのに真剣に聞いてくれず、すぐ諦める仲間にいらだったり、声をかけたのに「ほっとけよ」と言われて関わり方に迷ったり、何度も何度も学び合って分かりあえたり…。人生の悩みの大半は人間関係と言われるように、人と人とが関わり合う社会は山あり谷ありの連続です。

 

そんな山あり谷ありの人生でも、トータルで人とのつながりが得だと感じてほしい。「いろいろあるけどさぁ、人とのつながりって大事やな」と思える人になってほしいのです。

 

そのためには仲間が必要であり、それを得るための協同経験が欠かせない。関わりあうことに価値を見出すことができる瞬間の積み重ねが、互いのために関わり合うことが得だと信じられる仲間をつくる。1日の半分以上を過ごす学校で、多様な人と折り合いをつけながら、ときには近づき、ときには距離を置き、ときに励ましあい、ときにぶつかる。そんな経験をたくさん積める子ども時代にしてあげたい。もちろん、願いだけではダメですが。

 

任せることで起きることを恐れてはいけません。子ども時代の多様な経験が、大人になったときの人生を支えていくのですから。教師がその機会を奪ってはいけないですよね。教師主導で積む体験と子どもたち主導で積む体験は、きっと経験値に大きな差があると思うのです。

『学び合い』を成立させるために1番大切なこと

『学び合い』を成立させるために1番大切なこと。

 

それは1人も見捨てないの価値を語り続けること。特に初期は全員達成を本気で求め続けることです。

 

『学び合い』を始めた頃は、子どもたちに「1人も見捨てない」「全員達成」を伝え、求め続けることができませでした。気がつけば全員達成の必要性を語らず、「みんな能力が違うし、1時間で全員ができるなんてありえない。ほどほどでいいんだ。」と言い聞かせている自分がいました。すると、子どもたちは私の心を映すかのように、自分の課題が終わった後も練習プリントで自分の学習を進め、学習に遅れている子たちは私が教室をぐるぐる回ってサポートする状況になりました。子どもたちは何も悪くありません。考えてみれば当然です。

 

教師が本気で求めなければ、子どもたちも本気で応えるはずがないのです。

 

何度も何度も語り、全員達成のために動く子どもたちの姿に感謝し、その価値を伝え続ける。とても地道で長い道のりですが、願いをかけた分だけ、子どもたちは変わっていきます。 2割の子たちがその願いに共感し、その姿が徐々に中間層に影響を与えていきます。クラスの8割の子たちが全員達成に向けて動き出すまで粘り強く子どもたちの変化を待つのです。すると、1人では学習に進めない子どもたちも、仲間の支えで徐々に自立した学習者へと変わっていけるのです。

 

求め続けるためには覚悟が必要です。準備も必要です。同僚の信頼も必要です。それを支えるのは、やはり、教師が本気で1人も見捨てない事は得だと信じる、そんな社会を実現させたいと強く願う心でしょう。

 

結局精神論かい!と言われそうですが、これについては譲れないのです。その気持ちが弱くなったとき、『学び合い』はいとも簡単に崩れてしまうでしょう。

授業のこと『算数・資料の調べ方』

資料の調べ方の現在地

導入は盛山先生の実践を追試し、平均とちらばりについて学習。その後は単元のゴールに向けて、教科書を使った学習が始まりました。3クラス中2クラスが単元自由進度の『学び合い』です。昨日、私が冒頭に話ししたのは「課題の説明と予定確認、以上以下未満の意味覚えている〜?割合の求め方は〜?」だけです。あとは課題解決の35分間を個々のカンファランスと適時班ごとにミニレクチャーを行なっています。教える時間はトータル10分ほどです。板書は導入以降ほぼ書いていません。

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それでも子どもたちは学習をワシワシ進めています。アウトプット課題の「提案文」は、国語で一度学習した「資料を活用して説明しよう」の書き出し文を取り入れています。以下はルーブリック評価。

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どうなるか楽しみです。

『学び合い』のセオリーを包む、周辺のお話。

『学び合い』の中心が、「1人も見捨てないを求める授業」とします。今日はその周辺のお話。「1人も見捨てない」ための「環境整備」とでもいえばいいでしょうか。

 

二年前から続けている。

授業が始まる前にしていることです。

 

〇授業5分前の働きかけ

黒板に単元計画表を貼っていても、個別で渡しても、自分の現在地を見失ってしまったり、確認することが習慣化されにくい子たちがいます。授業の見通しが持てないとパニックになり、机に突っ伏してしまうことも。その子たちには休み時間に短い時間のミーティングを設けます。共有することはめあてと教科書のページ、活動内容について。

 

T「今日は友だちに3人に説明するという課題があるんだけど、どうかな?チャレンジできそう?」

C「うーん、1人ならいいかな。先生と友だち1人」

T「OKOK!それでいこう」

 

T「今日は卵の記録を表にまとめるよ。45以上〜50未満の間にある数字わかるかな?」

C「45,46,…」

 

という感じ。

 

ノートを何度も忘れしまう子には、ファイルでプリント整理することを提案しました。授業が始まったら私から受け取って、終了したら返す。「なんで忘れるんだ!?」と叱責する必要もなくなります。もちろん、忘れないように対策をして持ってこれるようにする指導も大切なのですが、1日に1回の授業でそのやり取りは無駄かなと考えました。それよりもスムーズに学習に取り組める流れをつくってあげることが重要かなと現時点では感じています。

 

〇授業中の働きかけ

昨日のこと。資料の調べ方も単元中盤に入り、「以上~以下・未満」「割合」というワードがでてきました。これも事前に子どもたちに聞きます。「~覚えているー?」といった感じで。事前にレディネスをそろえるということではなく、そのときの様子をみて、授業序盤にミニレッスンを行ったり、班ごとに1分ほどのレクチャーをしました。「ちょっと話していいかなー?」と言いながら、「あ、俺知ってるで」という反応があれば、自然と班の中で「教えて!教えて!」となるので、その場合は私のレクチャーは控えます。僕が説明した方が分かりやすいだろうと感じれば伝えます。以下は、レクチャーするときに使ったホワイドボード。部分÷全体をおさえました。

 

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僕は『学び合い』をしたいのではなく、自分が理想とする社会と『学び合い』の理念が重なっています。watchaosakaで就労支援のお話をした通りです。ただ、『学び合い』理念で包もうとしたときに、クラスによっては綺麗にすっぽりハマるクラスもあれば、はみ出しちゃったり、拒否反応を起こしちゃったりするクラスもあるのが事実。蓋を開けたら関係性も価値観もバラバラなわけですから。という話をすると『』のセオリーから外れてるとよく言う方がいますが、セオリーに拘りながらその場に応じて教師が変化する方がよっぽど大切なことだと思っています。

足して、引いて、どん!

人間関係でついた傷は、人との関わりでしか癒せない。

 

学習でついた傷は、学習でしか癒せない。

 

さて、これまでを簡単に振り返る。

 

私は「1人も見捨てない」という願いを子どもたちに伝え続けることができたのだろうか。

 

あるクラスでは、王道の「任せる」だけでは授業が成り立たず(全員達成は中々できず)、担外という立場上、自分の1人も見捨てないという気持ちを前面に押し出すのが怖くなった。そして、色々なものを付け足していった。

 

すると、その場は変わった。クラス内の抽出授業で教えてるもらうことで、解けなかった問題が解けるようになってきたのだ。嬉しそうな顔をしていた。課題のレベルを落とし、教師が介入しての全員達成が続くようになった。

 

でも疑問だった。それで子どもたちは子ども集団へと育っていたのか。そのような授業が、子どもたちの仲間を思う気持ち、見捨てずに一緒にやろうとする気持ちを育むことにつながっていたのだろうか、と。自分のやってきた授業は『学び合い』ではなかったのかもしれないと。

 

正直、どのタイミングで「任せればよいのか」分からなくなり、ハイブリッドどころかチャンポン『学び合い』だったかもしれない。それでも援助希求ができたり、自分から取り組めたり、困っている友だちに声をかけてくれたり、勉強に向かわなかった子たちが前向きに取り組めるようになったり、間違いなく子どもたちは成長している。

 

自分が教えることで「できた瞬間」が積み重なり、成功体験へと変わった子たち。今その子たちの一部は、自分からネームプレートを見て、まだ解き終わっていない子たちに声をかけるようになった。

 

いろいろ付け足してきて、今。

 

シンプルな『学び合い』に戻している。きっとつけたすのは必要最低限になるだろう。

 

watchaosaka 以降、子どもたちへの思いがさらに強くなったこともあって、語りはシンプルに伝えたいことを伝える。

 

なんかそれが自然になってきたな。

 

とりとめもない文章でした。

読んでくださった方ありがとうございました。

教科の見方・考え方を働かせる『学び合い』の課題づくり① 算数編

「教科の見方・考え方を働かせた課題づくり」

 

これが今年度のテーマです。(継続中)

今日はそれに至った経緯を簡単に。詳しい課題づくりは次回に譲ります。

 

昨年は6年生の担任として2学期から『学び合い』を始め、主に算数国語社会で子どもたちに任せる授業をしていました。課題づくりはその時間で学ぶべき目標はおさえていたものの、改めて授業を振り返ると課題の質が甘い。特に算数は・・・でした。

 

具体的にどう甘かったかというと、「文章題の立式」です。

「①問題文を読む」「②式を立てる」の間、立式にいたるまでの過程を速さなら「きはじ」割合や分数倍であれば「くもわ」に頼っていました。子どもたち同士の学び合いも、「これはき(きょり)を聞かれているから、きをかくして、は(速さ)×じ(じかん)になるやろ?」という会話であふれていました。他にも「~㎡ですかと聞かれているから、面積がわられる数になるねんで」「(分数のかけ算の単元)かけ算やから、二つの数字かけたらええねんで」など。一度は聞いたことのある教え方です。かくいう私も子ども時代はそのように教えられました。一応、この解き方でも問題は解けるようになっていたので、テストの平均点は90点以上に到達。その時は私も『学び合い』に満足していました。

 

しかし、学力テストでは思うようにはいきませんでした。いつもより文章量の多い文章題や数直線から式を選ぶ問題に多くの子どもたちが戸惑ってしまったのです。なぜ難しかったのか聞くと「「くもわ」や「きはじ」の公式を忘れてしまったから」といった回答が多くを占めました。

 

『学び合い』で子どもたち同士のつながりも対話も豊かになってきていた。でも、学期末の総まとめテストでは、文章量が長く情報が複雑化したり、公式を忘れてしまったりすると式を立てることができなかったのです。単元テストで点数が底上げされ、課題を提示するだけで子どもたち同士の学び合いが成立する、単元自由進度で授業を進めていたときのことでした。

 

原因は課題づくりでした。

「①問題文を読む」「②式を立てる」の間に数量の関係を整理し、立式の根拠を説明できること。この活動が不足していたのです。

 

新学習指導要領では各教科に見方考え方を生かすようお達しが出ております。

以下算数について。

小学校 新学習指導要領算数編

事象を数量や図形及びそれらの関係などに着目して捉え, 根拠を基に筋道を立てて考え,統合的・発展的に考えること

 

「数量の関係を捉え、根拠を基に筋道を立てて考え・・・」

これが、課題づくりをレベルアップさせるために必要な視点でした。

 

次回に続く。

 

影響力のある方に願うこと

原理的実践者(Facebookで目にした言葉)、いわゆる『学び合い』の原理にそって実践される方の発信は大切。ただそれだけでは足りない。それ以上に求められるのは、その方々が原理を生かして現場の様々な実態に適応させている事例を発信することだと思う。

 

 もちろん原理を大切にするという視点は持ち合わせなければいけない。そこが抜けてしまっては原理(願い)は1人も見捨てないを叶えるな実践へと変わってはいかない。そうなると怖いから、まずは原理を大切にすべき。でーも、ってところは個々の力量でしょ。

 

その原理を叶えるために、実態に応じて実践にちょいっとアレンジを加える。ここを第一線の人たちに発信してほしい。僕が言っても届かないけど、力のある人たちが言えば届くから。実力のある方々にはその方々だからできる役目があるでしょう。原理的実践者とそれ以外みたいな構図もうやめたいな。

伝えたかったことは何だろう?

朝、校門での挨拶。

 

「先生ー!おれんちはサンタクロースこーへんねん!」

 

と平気そうな顔で言う。

 

近くでは「プレゼント何もらったー?」という話題で盛り上がっていた。

 

サンタクロース役をする立場になって、サンタクロースって何だ?って思う。

 

彼が伝えたかったことは何だったのだろう?

 

 

教員1年目のことをふと思い出す。

 

ある子に「先生ーってリア充がなる仕事でやろ!?そんな人たちにうちらの気持ちは分からへん」と言われたこと。

 

彼女が伝えたかったことは何だったのだろう?