空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

国語科と読書について

2年ぶりに読書家の時間をスタートとしてわかったこと。それは、子どもたちの日常には、こちらが思っている以上にゆっくりと本を読む時間がないということ。(そもそもそのような習慣がないことも原因として挙げられるが…) 振り返りジャーナルを見てみると、こんな言葉がたくさん書かれていた。


「こんなにもゆっくりと本を読むのは久しぶりでした。これからもこんな時間が欲しいです」

 


「ひたすら読書をすると聞いて最初はえーと思って嫌な気持ちだったけど、じっくり時間をかけて読むと物語の中にすーっと入っていける気がした。読書もおもしろいかも」

 


家庭で読書をする文化や環境があればいいけれど、学校で読書をする機会を意図して作らないと、本を読み浸る経験を得ることができない現状は大いにあるようだ。時間をかけ、教科書教材で授業をしたこともあったけど、教師の工夫次第で子どもたちが本と出会う時間をつくれるのならば…なんとかしてあげたいよなぁと単純に思った。学習指導要領の読むの項目に「読書指導」の時数もたっぷり入れてほしい。いや、そうなる方が融通効かなくなるのかな?ともかく、今のカリキュラムって、とっても窮屈で余裕がないなぁと思っちゃう。そんな呑気なことを言っているのはボクだけだろうか。

 


フォルカー先生で読み聞かせをしたとき、「なぜ、この男の子はトリシャをいじめるのかな?」と聞いたんだ。すると、ある子がこう答えた。「それは自分も認められたいって思ってるから。トリシャに嫉妬してるからだよ」って。詳しくは書けないけど、その子からそのような発言が出るのはちゃんと理由があった。なるほどなって思ったし、もっといろんな本で子どもたちと対話をしてみたいと思ったんだ。教科書に出てくる物語だけじゃなくてね。

 


世界でいちばんやかましい音も絵本で読み聞かせする予定。どこかのタイミングで、主人公の変容とそのきっかけ(山場)についてミニレッスンができたらそれでいいかな?動物の体と気候も、でてきた動物の数を数えて、体と気候の関係を説明するためにいくつ事例が示されているのか確認したら終わりにしようかなぁ〜と思ってる。説明文の構成は作家の時間のミニレッスンで使おう。別にそのときに教えないといけないことではないから。読解はブロックアワーのときに触れたらよしとする。


※妻も私も次男の風邪がうつりました。子どもの風邪はほんとうにきつい。インフルエンザじゃなければ良いのだが…。おぅいぇー(´Д` )

ないない。なーんもない。

今年は当番表もロッカーのシールもない。係活動もない。毎時間の号令も。ないものだらけ。当番表については作成する余裕が自分にはなかったというのも理由の1つだけれど…。まぁ、それでも自然と1日は流れていく。必要性がでてきたら、朝のサークルタイムやGW明けから始めるクラス会議で考えればいいかな。

 教室に必要な仕事や係活動は、ちょボラと「やりたいことをやりたい人とやる」というプロジェクト型で進めている。ちょボラを率先してする子もいれば、たまにする子もいるし、お願いすると協力してくれる子もいる。プロジェクトは、立ち上げている子もいれば、今はやりたいことが特になくてプロジェクトチームに所属していない子たちもいる。以前は、全員が係活動に所属しないといけないと思っていたけど、「今はほんとうにそうかなぁ?」という思いが正直なところ。「やりたくなったときにやる」それでいいんじゃないかって。

 一方、他者の目は厳しく、「規律」が欠けているように見えるらしい。子どもたちがふわふわしていると。これは毎年言われること。ボクの目が甘いのかなぁ…。「毎日絵本なんか読んでるからだよ」と笑われちゃったけど。4月に絵本を読み続けたのはボクの唯一の自慢なのだ。ロバとシルベスターがいいところで終わってしまうから、子どもたちはもっと読んでほしいとうずうずしてる。絵本の読み聞かせ効果はすごい!ってじわ〜っと実感してるところ。まぁ、確かにまだまだなところはあるから、GW明けに再確認していこう。ただ、この再確認をいろんな人とやりたいんだよなぁ。自分だけだと偏るからさ。じゃぁ、規律重視型の先生になりたいのかと言われると…ボクは子どもたちと一緒につくっていける先生でいたいかなぁ。

セミナーに参加できなくてもなんとかなるでしょう。

ボクには2歳と1歳の息子がいる。土日の午前〜午後は家族の時間になるため、今年度からはほぼセミナーに参加することができない。長期休暇を使って、年に数回参加できればいい方だ。

 SNSを見ると「今日は〇〇だ!」「〇〇に参加して、たくさんのことを学びました」「これは参加必須の〇〇です」という言葉をたくさん目にする。きっと、ボクとその方では学級経営や授業の引き出しに大きな差が生まれるだろう。でも、今のボクにはそれより優先すべきことがあるのだから仕方がないのだ。確かに引き出しの差は生まれる。けれど、セミナーへ参加ができないことで教師の力量に差が生まれるかと問われるとどうだろう?ボクの成長に必要な芽って、誰かの話じゃなくて、教室で起きる事実にあると思う。日々起きる出来事をしっかりと見つめ、振り返る。そのことなしにボク自身の進化などありえないのだから。といった感じで言い聞かせてきてるんだけど、今年は試してみようと思うんだな。頻繁にセミナー参加しなくても、なんとかなるんじゃなーい?って。自己をメタ認知する。そんな機会を個人や複数人でできるように。しばらくは、そんな感じで教師って仕事と向き合わないといけないんだろうな。地味だけど、実はそれが一番成長できたりして…。

自分らしく歩め

とある出来事が家族にふりかかり、仕事どころじゃなくなった。そのときふと我に返った。ボクはボクらしくやろうと。あこがれの誰かを目指すのではなく、「ボク」で歩こうと。

 

今日の朝子どもたちに話をした。いいか悪いかはさておき、先週はずっと様子を見ていた、猫をかぶっていたと。ボクが何を大切にしていて、君たちにどんな人生を歩んで欲しいのか。そのためにどんな教室になることを願っているのか。少し暑苦しい話しになっちゃったけど、ボク自身の気持ちがすっきりしたんだ。ありのままで子どもたちの前に立てた気がした。出口は自分らしくいることにあったみたい。

 

誰かを演じるってこんなにも窮屈で不自然なのだということがよくわかった。もう変えていかなければならない。いや変えていける。ようやく地に足がついた。家族を第一に教師の仕事をする。生き方をシフトしよう。

 

※学級通信のテーマは「キャッチボール」に決定。catch、キャッチでもいいかなとも考えたけど。書いていこう。自分のペースで。

 

 

大地の会の代表を降りました。

『学び合い』大地の会の代表を降りることになりました。理由は、ボク自身が『学び合い』実践へのチャレンジと発信をしばらく控えようと思っているからです。改めて、1つのことを信念をもって続ける方には「覚悟」あるのだと身にしみて感じています。今後は事務局の一員として、微力ながら会の運営に関わらせて頂きます。今後も大地の会をよろしくお願いします。

にじみ出てくる言葉や態度はあなたのあり方そのもの

その方の一言や態度が場を安心させ、話し合いを促進していく。まるでファシリテーターのよう。言葉や態度に、その人の生き方、あり方そのものが滲み出る。時にリーダーシップの服もさらっと着て、ぐいっと引っ張ることができるのだろうなぁ。そんなことを感じた赴任1日目の出会いでした。まぁ、まだ知らないことばかりだから、どんなことにしても時間をかけていかないと…ね。

 

あと、異動っていいなとも思えた。勝手に心が「初心」に戻るから。そう思えることに感謝をしないといけないな。

 

さぁ、ぼちぼち頑張ろう。

 

※にじみ出る…ついつい呟いちゃう。ってのもその人のあり方なのかな〜なんて。

あれま!全く頭に入ってこない…はなぜ。

学年が決まったのでね、本屋さんによって手に取り目を通してみた。1年の流れが分かるシリーズをね。

 

それが…全く内容が入ってこない。

無気力にも近い状態…(こりゃ不味い!?)

 

有名な実践家がとてもためになることを書いている。自分の知らないことも結構ある、のにも関わらず…

 

なぜだろう?と考えた結果、ぼんやりと浮かび上がってきたことは「本文に考えたり問いを生んだりする余白がないから。あまりに見通しがたちすぎてて受け身になってしまうからだ」という仮説。…うーん、ちがう。問いを出せないのはボクの問題。あ、また頭でっかちになってる笑

 

とにかく今は必要ないってことかな?最初の3年は武装して新学期に臨まなきゃって思っていた。言い換えると、関連する教育書は全て買わないといけない!みたいな。そんな気持ちに駆られていたんだよね。2年目だったかなぁ。当時のことを妻に聞くと、「教材研究してないから出かけることはできない!教師は休みがないねん!って勝手に怒ってたよ」と言われた笑 新婚なのに…最悪な夫(笑) まぁでもそういうことなのだろう。 今は息子たちと過ごす時間がとても貴重だから、仕事とのバランスを取り始めているのかもしれないなぁ。まぁ、なんとかなるし。全部理想通りにするの無理だしって割り切ってしまっている。いいのか悪いのか…さてはて。

 

児童書をぼちぼちそろえています。

最近読んだ本。

マチルダは小さな大天才 (ロアルド・ダールコレクション 16)

マチルダは小さな大天才 (ロアルド・ダールコレクション 16)

  • 作者: ロアルドダール,クェンティンブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,宮下嶺夫
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 2005/10/01
  • メディア: 単行本
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びりっかすの神さま (偕成社文庫)

びりっかすの神さま (偕成社文庫)

 

チルダはノンストップで読んでしまった。マチルダはじめ、出てくるキャラクターが面白いのなんの。個性的すぎる。びりっかすの神さまは読書が苦手な子が読み切る経験をするのにちょうど良いボリューム。教室の本棚にはロアルド・ダール氏と岡田淳氏の本を複数冊揃えることができそう。他にも複数セットはあるけど、この本たちはボクが大好きなもの。心からおすすめできる。最近は教育書より、児童書と教養書。読書がとても楽しい。

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体験的な学びって大切だよね。

 体験的に学ぶってとても大切。数年前、ひとまちのセミナーで甲斐崎先生の学び合いの授業を体験した。その時に感じたことは、「聞くってドキドキする」ってこと。周りは知らない人ばかりだったので、その環境も影響していたかもしれません。やはり「わからないことを聞く」ってドキドキするものだ。

    ある方の企画で自由作文の時間を体験したこともある。言い換えればWWのようなものだ。近くを散歩して、帰ってきたら書きたいことを書くという流れだった。何を書けばいいのか思いつかなかったし、自由に書くことで誰かに馬鹿にされるんじゃないかな、みんなどんなこと書いてるのかなという心の動きがあった。この時は書かなければならない気持ちにかられた無理やり書いた。テーマは川で見つけた鳥に向けて「君の気持ち」笑

  一方、ライティングワークショップのように書きたいことを書く体験をボクは日常でしている。それはブログだ。それはブログ。ここ2年は『学び合い』実践を中心に、今は自分が感じたことや心の揺れ動きをジャンルを問わず書いている。気がつけば、投稿記事は400にものぼる。ボクはこの書く時間がとても好きだ。

 

さて、上に挙げたことでボクが体験したことはこんなことかな。

  • わからない事を聞くって教師が思っている以上にドキドキすること。頭でわかっていても体が動かない。
  • 自由に書くって、思いつかなくて手が止まるときもあれば、書くことに夢中になれることもある。ジャンルを限定されるのはストレスになることもあれば、きっかけにもなる。

体験してみるとわかる。それは本を読んで知った事を大きく上回る。教師自身が学習者としての実感を持つことは、子どもたちに任せる授業にチャレンジする上でとても大切だ。なぜなら、実感をもった方が学習者の気持ちに寄り添えるからだ。ボクは『学び合い』の会を主催してるけど、集いやセミナー形式だけじゃなくて、体験的に学ぶ場作り進めていきたい。そういう意味では大阪PACEはステキな場だ。いつかファシリテーターにチャレンジしてみたいな。

 

学校って何のためにあるのさ

『学び合い』には学校観・子ども観・授業観がある。これまではその考え方を頼りに教育を語っていたけど、その言葉を引用してではなく、今自分の心にある言葉で語っていきたい。あ、学校教育をね。

 

学校って何のためにあるのでしょう?と考えたら、「幸せの感度を育む・高める場」という言葉がでてきた。ただ、これは将来のためとかではなくて、「今」を幸せに生きていくことで、自分の生き方に責任を持てるようになっていくこと。自分でハンドルを握っていくこと。そのプロセスを学校で歩んでいくこと。自分にとって幸せとは何か。それを感じられるときってどんな時なのか。それを見つけられる場所であってほしい。そこでキーワードになるのは「自己選択・自己決定」、あと教室が(学校が)「自分のしたいを実現できる場所」であること。

 

でも、現状では満たせないんだよね。いや、満たしにくいかな?結局、国や学校の都合に子どもたちを合わさせる流れが主流。その不自然さに気づけないんだなぁ。

 

↓5年の国語(東書)で紹介されていた本。とてもステキなお話。ノエル先生みたいにクーポンを配ると子どもたちは何を選択するだろう。思いっきり好きなようにさせてみたい。勇気ないけど…。

PS 最近読んだ本で面白いと感じたものに、なぜか日本作家が少ない…。なぜかなぁ。

ノエル先生としあわせのクーポン

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