空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

越えるべき山がやってきた

仲里靖雄先生。今担当している学年の子どもたちの前担任の先生です。過去に、明日の学校でお話を聞いたことはあったのですが、まさか仲里先生の教え子たちを僕が担当するとは思ってもいませんでした。(クラスの約3割です) 

子どもたちの社会科ノートには、自分たちで問いをつくり探求していく学びの足跡が残っていました。子どもたちに聞くと「教科書を見るだけでわかったことをまとめたり、問いをつくれる」と言うのです。ボクも興味津々で、どのように学んできたのか根掘り葉掘り聞いてみました。

 


「このページならどんな問いが生まれる?」

「見たことをそのまま書く!という説明なら、はじめての子もまとめやすいかな?」

「わかったことに「なぜ」や「どうして」と付け足すと疑問ができるね!」

「「つまり」の色が違うけど、わかったことを深めるためのキーワードだったのかな?」

 


といった具合です。子どもたちは言います。「自分たちの問いを調べたい」と。この子たちを更に伸ばしていくためには、ボクの授業観のパラダイムシフトが必要不可欠。毎回教師が課題をつくる授業は…と、いつかは超えたいと思っていた壁が目の前にやってきてくれました笑 これはチャンスです。「仲里先生とかなせんは似てるよ。だから、問いをつくる授業できると思う」と子どもたちにエンパワーメントされています。このような授業を経験したことがない子たちもいるので、導入段階からスモールステップを丁寧にデザインしていこう。と言いつつ、実はこの前、少し真似事をして大失敗したのだけれど…。だからこそ、最初は小さく丁寧に始めることが大切だと実感している次第です。

 


ここ最近の自分が越えようとする壁の高いことといったらもう。何年かかるのよん。

こつこつ続けていること

なんだかんだ忙しかったけど、続けてこれた朝のサークルタイム。子どもたちにとって、みんなで輪になり1日を迎えることが当たり前になってきたような気がする…。「みんなが入れるきれいな円をつくってね」の声かけだけで、自然ときれいなサークルがつくれるようになってきたなと。

サークル対話の後は絵本の読み聞かせ。連休前に終わってしまった「ロバとシルベスターと魔法の小石」を読んだ。子どもたちはちゃんとあらすじを覚えている。国語が嫌いな彼も、読書が苦手な彼女も、次の展開を楽しそうに考えていた。また途中で終わっちゃったけど笑 あと、ちゃーんと意見も言ってくれる。クラスやボクへの意見も。給食当番表はハプニングの末、つくりたいと声を上げる子達が増えました。来週、材料と写真を渡してつくってもらいます。最初からあるのと、ない状態から必要性を感じてつくるのは同じ当番表でも全くちがうもんね。

 


ここまで、詳しくはechoで。

ちいさくまわす

 アトウェルも最初から今のアトウェルではなかったわけで。小さく始めないと空中分解するだろうなと感じた。パッケージだけをひたすら回す作家の時間は…やるにはちょいっと勇気が必要かも。ミニレッスンも追いつかなくなってくる。実践しながら、試行錯誤する余裕も日常にないんだよなぁ。

 

これまでのぼくは、大きな実践に出会うと大きなサイクルを回してしまいたくなる傾向があった。つまり、いきなり本に書かれているレベルをやるぞ!ってこと。それは独身や結婚後、子どもを授かっていないときのこと。連休の多くの時間を教材研究や読書にあてることができた。今は本を2冊読むのが精一杯。もっと学びたいと思えば思うほど悪循環。じゃあ、どうするか?

 

大きなサイクルを小さく回すしかない。時間がないのは変わらないのだから、限られた枠の中でまずは小さくはじめてみる。この小さくの「中身」って案外共有されていないと思っていて、その積み重ね部分の記録を残しておきたいなと。スモールステップの具体を残しておきましょうってこと。短時間で今できること。ネタではなくね。

 

のはらうたをつかった「なりきり自由詩」3年前にひたすらやった。「自分の書きたいことをひたすら書く」からは離れてしまうけど、この実践は1人称という書き方も伝えられる。これを最初に持ってこようかな。まず作家の書くサイクルを何度も回してほしいから。その後、自由詩へと移行していく。同時並行で「作詩」について学びながら、僕自身の作家のサイクルも回していく。自由詩のこと、まだちゃんと分かってないんだけどね。子育てパパがいかようにアップデートしていくか。らしく、らしく、パパとして教師として成長しいかねば。

イン・ザ・ミドル

 

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

 

 

イン・ザ・ミドル。読書家の時間と作家の時間に取り組むに当たって、GW中に必ず読んでおかなければと隙間時間があれば読み進めている1冊です。まだ途中ですが、ナンシー・アトウェルにあって、自分にないものがみえてきました。いや、ないものだらけなんで、挙げればキリがないのですが…現時点ではっきりしていること。


①教師自身が自立した読み手書き手であること

②圧倒的な専門性(アトウェル自身の読み書きの量が半端じゃない)

③アトウェルの「厳しさ」

  (これは意外で…記録の随所に垣間見えました。この手法に対する自信と覚悟が、そのあり方に通じているのだと感じています)

 

まだ途中です。子どもたちが寝たらまた読み進めます。

 

国語科と読書について

2年ぶりに読書家の時間をスタートとしてわかったこと。それは、子どもたちの日常には、こちらが思っている以上にゆっくりと本を読む時間がないということ。(そもそもそのような習慣がないことも原因として挙げられるが…) 振り返りジャーナルを見てみると、こんな言葉がたくさん書かれていた。


「こんなにもゆっくりと本を読むのは久しぶりでした。これからもこんな時間が欲しいです」

 


「ひたすら読書をすると聞いて最初はえーと思って嫌な気持ちだったけど、じっくり時間をかけて読むと物語の中にすーっと入っていける気がした。読書もおもしろいかも」

 


家庭で読書をする文化や環境があればいいけれど、学校で読書をする機会を意図して作らないと、本を読み浸る経験を得ることができない現状は大いにあるようだ。時間をかけ、教科書教材で授業をしたこともあったけど、教師の工夫次第で子どもたちが本と出会う時間をつくれるのならば…なんとかしてあげたいよなぁと単純に思った。学習指導要領の読むの項目に「読書指導」の時数もたっぷり入れてほしい。いや、そうなる方が融通効かなくなるのかな?ともかく、今のカリキュラムって、とっても窮屈で余裕がないなぁと思っちゃう。そんな呑気なことを言っているのはボクだけだろうか。

 


フォルカー先生で読み聞かせをしたとき、「なぜ、この男の子はトリシャをいじめるのかな?」と聞いたんだ。すると、ある子がこう答えた。「それは自分も認められたいって思ってるから。トリシャに嫉妬してるからだよ」って。詳しくは書けないけど、その子からそのような発言が出るのはちゃんと理由があった。なるほどなって思ったし、もっといろんな本で子どもたちと対話をしてみたいと思ったんだ。教科書に出てくる物語だけじゃなくてね。

 


世界でいちばんやかましい音も絵本で読み聞かせする予定。どこかのタイミングで、主人公の変容とそのきっかけ(山場)についてミニレッスンができたらそれでいいかな?動物の体と気候も、でてきた動物の数を数えて、体と気候の関係を説明するためにいくつ事例が示されているのか確認したら終わりにしようかなぁ〜と思ってる。説明文の構成は作家の時間のミニレッスンで使おう。別にそのときに教えないといけないことではないから。読解はブロックアワーのときに触れたらよしとする。


※妻も私も次男の風邪がうつりました。子どもの風邪はほんとうにきつい。インフルエンザじゃなければ良いのだが…。おぅいぇー(´Д` )

ないない。なーんもない。

今年は当番表もロッカーのシールもない。係活動もない。毎時間の号令も。ないものだらけ。当番表については作成する余裕が自分にはなかったというのも理由の1つだけれど…。まぁ、それでも自然と1日は流れていく。必要性がでてきたら、朝のサークルタイムやGW明けから始めるクラス会議で考えればいいかな。

 教室に必要な仕事や係活動は、ちょボラと「やりたいことをやりたい人とやる」というプロジェクト型で進めている。ちょボラを率先してする子もいれば、たまにする子もいるし、お願いすると協力してくれる子もいる。プロジェクトは、立ち上げている子もいれば、今はやりたいことが特になくてプロジェクトチームに所属していない子たちもいる。以前は、全員が係活動に所属しないといけないと思っていたけど、「今はほんとうにそうかなぁ?」という思いが正直なところ。「やりたくなったときにやる」それでいいんじゃないかって。

 一方、他者の目は厳しく、「規律」が欠けているように見えるらしい。子どもたちがふわふわしていると。これは毎年言われること。ボクの目が甘いのかなぁ…。「毎日絵本なんか読んでるからだよ」と笑われちゃったけど。4月に絵本を読み続けたのはボクの唯一の自慢なのだ。ロバとシルベスターがいいところで終わってしまうから、子どもたちはもっと読んでほしいとうずうずしてる。絵本の読み聞かせ効果はすごい!ってじわ〜っと実感してるところ。まぁ、確かにまだまだなところはあるから、GW明けに再確認していこう。ただ、この再確認をいろんな人とやりたいんだよなぁ。自分だけだと偏るからさ。じゃぁ、規律重視型の先生になりたいのかと言われると…ボクは子どもたちと一緒につくっていける先生でいたいかなぁ。

セミナーに参加できなくてもなんとかなるでしょう。

ボクには2歳と1歳の息子がいる。土日の午前〜午後は家族の時間になるため、今年度からはほぼセミナーに参加することができない。長期休暇を使って、年に数回参加できればいい方だ。

 SNSを見ると「今日は〇〇だ!」「〇〇に参加して、たくさんのことを学びました」「これは参加必須の〇〇です」という言葉をたくさん目にする。きっと、ボクとその方では学級経営や授業の引き出しに大きな差が生まれるだろう。でも、今のボクにはそれより優先すべきことがあるのだから仕方がないのだ。確かに引き出しの差は生まれる。けれど、セミナーへ参加ができないことで教師の力量に差が生まれるかと問われるとどうだろう?ボクの成長に必要な芽って、誰かの話じゃなくて、教室で起きる事実にあると思う。日々起きる出来事をしっかりと見つめ、振り返る。そのことなしにボク自身の進化などありえないのだから。といった感じで言い聞かせてきてるんだけど、今年は試してみようと思うんだな。頻繁にセミナー参加しなくても、なんとかなるんじゃなーい?って。自己をメタ認知する。そんな機会を個人や複数人でできるように。しばらくは、そんな感じで教師って仕事と向き合わないといけないんだろうな。地味だけど、実はそれが一番成長できたりして…。

自分らしく歩め

とある出来事が家族にふりかかり、仕事どころじゃなくなった。そのときふと我に返った。ボクはボクらしくやろうと。あこがれの誰かを目指すのではなく、「ボク」で歩こうと。

 

今日の朝子どもたちに話をした。いいか悪いかはさておき、先週はずっと様子を見ていた、猫をかぶっていたと。ボクが何を大切にしていて、君たちにどんな人生を歩んで欲しいのか。そのためにどんな教室になることを願っているのか。少し暑苦しい話しになっちゃったけど、ボク自身の気持ちがすっきりしたんだ。ありのままで子どもたちの前に立てた気がした。出口は自分らしくいることにあったみたい。

 

誰かを演じるってこんなにも窮屈で不自然なのだということがよくわかった。もう変えていかなければならない。いや変えていける。ようやく地に足がついた。家族を第一に教師の仕事をする。生き方をシフトしよう。

 

※学級通信のテーマは「キャッチボール」に決定。catch、キャッチでもいいかなとも考えたけど。書いていこう。自分のペースで。

 

 

大地の会の代表を降りました。

『学び合い』大地の会の代表を降りることになりました。理由は、ボク自身が『学び合い』実践へのチャレンジと発信をしばらく控えようと思っているからです。改めて、1つのことを信念をもって続ける方には「覚悟」あるのだと身にしみて感じています。今後は事務局の一員として、微力ながら会の運営に関わらせて頂きます。今後も大地の会をよろしくお願いします。

にじみ出てくる言葉や態度はあなたのあり方そのもの

その方の一言や態度が場を安心させ、話し合いを促進していく。まるでファシリテーターのよう。言葉や態度に、その人の生き方、あり方そのものが滲み出る。時にリーダーシップの服もさらっと着て、ぐいっと引っ張ることができるのだろうなぁ。そんなことを感じた赴任1日目の出会いでした。まぁ、まだ知らないことばかりだから、どんなことにしても時間をかけていかないと…ね。

 

あと、異動っていいなとも思えた。勝手に心が「初心」に戻るから。そう思えることに感謝をしないといけないな。

 

さぁ、ぼちぼち頑張ろう。

 

※にじみ出る…ついつい呟いちゃう。ってのもその人のあり方なのかな〜なんて。