空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

『学び合い』とは人間主義の授業?

モヤモヤもしてないんですが、思っていることを書き連ねます。

 

『学び合い』って結局のところ人間主義の授業?なのか。

 

 西川先生は、教授(子どもたちから見れば学習)は子ども達の役目であると言い切っている。教師はできるだけ介入しない。でも、この実践がめっちゃ上手くいく人とがいる一方、子ども達をうまく学びに向かわせられず困惑している人もいるじゃない。僕の知っている人でも『学び合い』から離れてしまった人は結構いてる。人間主義の授業では、結局授業をつくる主体が「教師という人間」そのものになってしまっているんだよね。教育技術ではなく、子ども達の主体性に委ねているはずが、結局その場の学びを構成するのは「教師そのもの」であるという。

 

で、この人間主義だと思ってしまうのも実はやっかいで、上手くいかなかった場合、「1人も見捨てない」という哲学的な言葉を頼りに、授業の客観的な分析を捨ててしまう。子ども達は上っ面だけの学びになり、もともと教科主義や技術主義だった先生も、授業に物足りなさを感じてしまう。(これは聞いた話ではなく想像です)

『学び合い』から離れてやめた人。一方、『学び合い』を糧にそれをさらに進化させようとしている人たちって、ここらへんに葛藤があったのかなぁと思ったのです。

 

失敗本だけでは、きっと救えない方々が多くいるんだろうなと。

※『学び合い』を人間主義でまとめてしまってますが、ここでは語りや課題設定、見取り、可視化など、授業をよりよい方向へもっていくための技があることは棚においておきます。