決まり文句の語りはいらない。
私は学校で学ぶ意味を、出来る限り分かりやすい言葉で子どもたちに伝えるようにしています。ですが、その言葉が「本気で」「全員で」といううわべだけの言葉ばかりになると、子どもたちは教師の覚悟の薄さをすぐに見抜くものです。
先日ふるTさんと語る言葉について意見を交わしました。ふるTさんは僕の進むべき道を示してくれるメンター的存在です(勝手にそのような存在にさせて頂いています)
本気でと言葉にするのは簡単ですよね。気がつくと私は「本気で」「全員で」「最高の結果を」「みんな幸せな方が」とか決まり文句のように出しているような気がします。その言葉の中に深く潜れば潜るほどに葛藤は生まれてくる。そこに寄り添うことを忘れずにいたいです。
— kana_sen (@metchi0906) 2018年6月23日
気がつくと同じ言葉、いや綺麗な言葉ばかりに並べてしまうことがあります。1、2年目は特にそうでした。でもそれでは言葉を投げるだけになってしまうのです。ふるTさんの言葉を借りれば、話す=放つ、語る=かたちづくる。なるほど。子どもが受け取れる形に変えていく必要があると改めて考え直しました。
「本気」「見捨てない」「本当のわかる」「思いやる」など、自分が発する言葉の意味を子どもたちが掴むためには、かたちづくらなければならない。隙間時間さえあれば、口にする言葉の真意を自問自答しています。今年は担外での『学び合い』なので、なおさら言葉に敏感になっています。
— kana_sen (@metchi0906) 2018年6月23日
行き帰りの電車内でも考えます。子どもたちに「全員がわかる」とはどういうことなのか、結果が全てではなく何が大切なのか。本を読んでいて思いつけば、すぐにメモです。
まだうまく語りきれないことがあっても、その日の帰り道に「あっ、そういうことか!」と腑に落ちることはよくあります。未熟でも突き進む。時には言葉の真意があやふやでも、子どもたちの姿や対話を通して磨かれていくことだってありますよね。ふるTさんの域には達してないですが、超共感します。
— kana_sen (@metchi0906) 2018年6月23日
自分が伝えようとする言葉の奥底に潜って言葉の真意をつかみ、綺麗事では済まされない、リアルな部分も私は伝えるべきだと考えます。なぜなら自分が語る言葉を実現しようとすれば、必ず喜びや葛藤を経験するからです。1人の大人として夢を語ることはもちろん大切。でも、それだけでは自分の願いの薄さを露呈するだけになると思うんだよね。