空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

酔ってるわけではないけれど…

「1人も見捨てない」


この言葉をどう解釈するかで、教師の語りも環境整備も、また子どもたちの動きも変わってくる。つまり、実践者の捉え方によって『学び合い』の実践も異なってくるということです。


では、1人も見捨てないを願う『学び合い』の実践者全体に共通していることは何か。それは学力が多様な子どもたち全員に、学習指導要領で求められる最低限の内容を身につけさせること。そらを実現するために、教師の力だけでなく、「全員達成」という旗を掲げ、子どもたちにも協同を求めることでしょう。「学校はみんなが賢くなれる場所。そんな教室になるように、先生と君たちで力を合わせていこうね。」と子どもたちには伝えています。


大切なのはここから。


「教師の仕事は目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもたちから見れば学習)は子どもたちの役目である」という授業観。この授業観をそっくりそのまま受け取って、私は沢山の失敗をしてきました。具体的な内容は言えませんが、その時の私は「教師は教えてはいけない」と思いこんでいたのです。難しいと思う内容も、しっかり語って任せれば子どもたちは有能だから達成できる!と本気で思っていました。


ね、無責任すぎるでしょう。子どもの姿を見ずに『学び合い』的な授業を成立させることを目的にしていたんです。そんな形を追い求める教師の授業がうまくいくはずがありません。絶対に。目標の設定も環境の整備も、全ては目の前の子どもたちから始まるはずです。私はそのことに気がつくのに2年かかりました。


他の授業形態でもそうです。何のためにその技法を使うのか、何のためにペアトークをするのか、何のために可視化するのか、全て理由があって願いがあって力を発揮できるもの。形だけなんてなーんの意味もない。形だけにしたことで失敗に気づければいいけど。


酔ってるわけじゃないのに。少し辛口になってしまった。いかんいかん。