空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

子どもたちが「問い」を持つ余白はあるか

研究授業シーズン。ようやく授業を見る視点が身につき、検討会でも自分の考えを言えるようになってきました。って、まだその程度のレベルなんですけどね…とほほ、


さて、授業を見ていると「予定調和のある授業はやりやすい。それは誰にとって?これは誰のための授業なの?」という疑問を持つことが増えてきました。


あらかじめ用意された考えやまとめの短冊。

多くの授業が「先生のため」の授業になっていやしないか。


「お話読んでて、気になる言葉なかった?〇〇気にならへん?この言葉どういう意味か考えてみようか?」


この発問に、子どもたちが考える余白はこれっぽちもありません。「〜について考えなさい」と先生が指定したことについてしか考えることができない。これが繰り返されると、自分で「問い」なんて持てるようになるはずがない。自分の「学び合い」もただ課題を与える授業になってしまってないだろうか。そこに問いを持つ余白はあるのか。そもそも問いとは何なのか。そんなことを考えています。