「自分」のための授業はいらない
先日、とある事情で『学び合い』的な授業展開ではなく、一斉授業による展開で授業を進めることがあった。冒頭の15分である。子どもたちの様子はいつもとちがう。分かり切ってたことなのに。そんな子どもたちの姿を見て、私は焦る。子どもたちを見る視点もすっかり変わってしまっていた。
「書きましょう。と言っているのにおしゃべりをしている子がいる」
「ボーっとしている子がいる」
「もう集中力を切らしてしまっている子がいる」
と言った具合である。
『学び合い』ではこうはならない。
もちろん、私の一斉授業に問題があったのかもしれない。
でも、今回はそれが本質ではなさそうで。
問題は一斉授業か『学び合い』かということではなく、子どもたちの実態とは別の理由から、授業展開を変えてしまったために子どもたちは戸惑ってしまったのではないか。
と感じた。
いつもなら『学び合い』なのに。いや『学び合い』でないと、太刀打ちできない実態があるのに。外の目を意識して、子どもたちに合わない授業をしてしまった。授業が始まって10分ぐらいたった後、「あぁ、『学び合い』なら、最初にこれだけの量の問題を提示して「はい、どうぞ」と言えば、うまくいったなぁ」と頭の中がぐるぐるしていた。
普段やっていないことを突発的にやらないほうが良い。それに、今回の授業は、子どもたちの実態から生まれた、彼らにとって必要性のある授業ではなかった。外の目を意識した「自分」ための授業になっていたのだから。
どんなときも子どもたちからスタートするものでありたい。
授業というものは。