kanasenの『七転び八起き』

大阪の小学校教員かなせんです。「幸せに生きる」その力を育む場づくりを探求します。ともに歩み・ともに学び・ともに創る。モットーは「やりたいこと」に正直に

『学び合い』が個々の学習ペースを大切にしていない実践と言われて、考えたこと

先日、ある投稿を見て感じたこと。

 


『学び合い』では、できていない子にできている子がサポートにいく場面が見られます。そのサポートはゆっくり考えたい子にとって、いらぬ御節介だという意見を頂戴することもあります。昨年は『学び合い』を続ける過程で、「1人で考えたいのに教えられてしまう。うっとしい」と振り返りに書く子もいてました。全員達成だけが目的になってしまうと、そのような『学び合い』になるのだと思います。一方で、自分からは声をかけられず助けを待っている子もいます。それで救われる子がいるのも事実なんです。ゆっくり考えたい子は「俺もうすこし考えたいから」と言って断ったり、「1人で考えたい」札を机の上に立てたりして仲間のサポートと折り合いをつけます。全員が一生懸命がんばったけど、全員達成はできなかった。結果は花丸です。頑張ったんですから。大切なことは「自分や友だちの学びがより良いものになるようにサポートし合うこと」その過程を経た全員達成に価値があるのだと思います。(誤解を恐れずに言うと、1時間で全員達成をゴールにする『学び合い』の期間は必要です。僕の場合)

 また、教科によって、「教える・教えられる」立場が逆転することもあります。それぞれの子どもたちには得意不得意があるので当然です。全教科とまではいかなくても、多くの時間で子どもたちに課題解決を任せると多様な『学び合い』が見られるようになります。「算数ではいつも教えられるけど、体育になると友だちのサポートが必要なんだ。いや、算数でもあの時は〇〇さんに教えてもらうこともあったな。そのときの自分次第で助けを求めたり、一人でがんばったり、どう学ぶか考えられるようになった」という気づ気も生まれます。(昨年の振り返りジャーナルより)

  『学び合い』がクラスの誰かの学び方を阻害していることに授業者が気づかない場合、それは子どもたちの学び合う姿に満足しているだけなのかもしれません。「全員達成」を目指すことが『学び合い』と解釈してしまっているのかもしれません。その表面的な姿に満足していては、適切なアセスメントはできませんし、次の一手も打てないのです。