子どもたちはあなたをどう見ているのか
「ボクが子どもたちをどう見ているかではなく、子どもたちがボクのことをどう思っているのか」
アダンの会で話題になった。確かこの本からだったかな?
他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論 (NewsPicksパブリッシング)
- 作者:宇田川 元一
- 出版社/メーカー: NewsPicksパブリッシング
- 発売日: 2019/10/04
- メディア: 単行本
先生というのは基本的に話をしたがる人。
指示をしたがる人。目標を掲げたがる人。
「先生は君たちのことをこう思っている。だからこうした方がいい」
「今の君たちには○○が必要だ。だから○○を目標にしてがんばろう」
「全員が○○をできるようにする。そのためにどうすればよいか考えようね」
➡は教師から子どもたちへ。昨年までのボク。
➡を逆向きにしてみよう。
「ボクは先生やクラスのことをこう思っている。だからこうした方がいいんじゃないかな?」
「先生、クラスには○○が必要だよ。だから、こんな○○を目標にするのはどう❔提案してもいい?」
「先生、まだ○○ができていない子がいるんだけど、どうしたらできるようになるかな?私はこう思うんだけど・・・」
上は極端な例だけどさ。気がつけば、多くの教育活動が教師➡子どもたちになりがちだよね。もちろん、教師から子どもたちへの働きかけをゼロにしようってのは無理な話だ。だがしかし、教室は子どもたちと共につくる場所。民主的な国家をつくる担い手を育てていくのであれば、➡は「教師⇔子どもたち」[「子どもたち⇔子どもたち」であるべきだよね。その⇔が自由に動いていける空間。子どもたちがちゃんと➡を出せること。それが社会に参画していくということ。たどり着くゴールが(先生が)描いたものとは違っていても。教室はその経験を積める場所になっているのか。➡が一か所から一方通行の方が楽かもしれない。でもそれは、ただ「先生がつくりたい場所」になっているだけじゃないのかな。
先生が最初からゴールが決めるプログラム。
先生が決める話す時間。
先生が決める学び方。
先生だけがつくる評価基準。
先生がつくる教室レイアウト。
先生が決める掃除のやり方。
学校生活の各所にある意思決定の機会を先生が奪ってしまっていることに気づかない。もちろん、枠は必要さ。そのときにあった責任の持たせ方、任せ方ってのもある。それを見極めるのはボクたちの腕の見せ所。ただ、その見極めることさえも、子どもたちと相互チェックしていけるといいよね。
難しくて、泥臭くて、時間はかかる。そんな場をつくる大切さに気づいているのに、何を勝手に自分だけで決めているのさ❔君がつくりたいやり方を押しつけてどうする?もっと子どもたちに聞いてみてごらん。「どう思う?」その一言でスタート切れるんだぜ。
顔がこわばっている。まだ自分の方が正しいと思っているだろう?
子どもたちは先生をどう見ているんだろう?
子どもたちは教室をどう見ているんだろう?
子どもたちは授業をどう見ているんだろう?
ちがう意見が出てくるのを恐れるな。
ちがって当たり前だ。分かっていただろう?
子どもたちが育っている。
それはあなたの旗がなくなっても成り立つかい❔
まずは試してみようぜ!ってマインド持てているかい❔
ほんとうに任せる気あるかい❔
いざとなったら、任せた責任をもてるかい❔
自分のこだわりを大切にする勇気と捨てる勇気を持てているかい❔