空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

育児休暇がくれた贈り物

 育児休暇も残すところ、あと1日。あっという間の2か月でした。当初は中途半端な時期から復帰して担任を持つことが嫌で、育児休暇の取得を拒んでいました。今思えば恥ずかしい話なのですが・・・でもこれが育児休暇を取る前の価値観だったのです。

 

実際に取ってみた感想を素直に言うと「取って良かった。子育ての神様がくれた宝物のような時間だ」と思えます。

 

何より一番嬉しかったのは長男との絆が深まったこと。

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「育休とってから、パパ!パパ!って甘えるようになったよね」と妻からも言われるようになりました。それまでは朝早く帰宅も遅く、息子とおしゃべりしたり、じゃれ合う時間もほとんどない状況。一方、休暇中はというと、平日はもちろん休日も仕事があるというプレッシャーがなく、とてもリラックスした状態で息子との時間を過ごすことができたのです。きっと担任を持っていたら、来週の準備のために少し教材準備を・・・となって、子どもとの時間を削っていたかもしれません。

 

さらに育児休暇は私の3つの価値観を変えてくれました。

 

 1つ目は仕事との向き合い方働いていたときは、息子のお迎えやお風呂入れるために早く帰宅することも「忙しいから無理や」と最初から決めつけていました。でも今は、1日でも多くお迎えに行ける日ができるように時間休を取ったり、お風呂に間に合うように全力で仕事を片付けたいと思えるようになりました。

 

 2つ目は教育現場の見方。実のところ、私は運動会や卒業式などの学校行事があまり好きではありませんでした。なぜなら、大幅な準備時間を取られることで授業が思うようにできなくなったり、練習の時点から行事があるから仕方なくやっているというような「やらされ感」があって、形式化したノルマになっている感覚があったからです。でも、進級式やお誕生日会など、育児休暇中に様々な行事に参加させて頂き、ほんの一瞬の時間でも息子の成長が見られることに喜びを感じている自分がいました。「あ、私の学校の行事も、保護者の方々は楽しみにしてるんだよな」とこの体験からすっと自分の学校行事に対する偏見が薄れていったのです。ただ、改善すべきところは確かにあるのも事実。多くの不満は教師の意識や仕組みの問題でもあるからです。ここは慎重に丁寧に考えていかなればならないこと。学校や子ども、保護者にとってよりよいものをつくりたいですよね。

 

 最後の3つ目は、育児に対する理解。休暇中、しっかりと妻のサポートができたか自信はありませんが、息子の送り迎えにはじまり、家事や食事や排泄のサポート、お風呂や寝かしつけなどを経験することで育児の大変さを感じることができました。きっと、働いている状態では理解できなかったことだと思います。1つ目の仕事の向き合い方に通じますが、少しでも早く仕事を切り上げてサポートをしなければと思えるようになりました。

 

 

ここで、ちょっと視点を変えます

www.nikkei.com

  育児休暇は決して当たり前にとれるものではありません。特にこの国では、男性の育児休暇取得率は非常に低く、取りたくても取れない方がたくさんいらっしゃるのが現状です。そのような中、気持ちよく送り出してくださった職場の管理職や同僚には感謝の気持ちでいっぱいです。「権利だから取得して当たり前」とおっしゃる方もいますが、この取得率の数値を見れば、そんな傲慢なことは言えません。

 

 私は、男性も育児休暇をとることをお勧めします。働いていては見えなかったものに気づけるからです。そして何より、一番の宝物は子どもがぐーんと成長する時間に寄り添えること。いつか同僚が「育児休暇を取得する」となったときは、全力で応援します。

 

さぁ、明日から新たな生活がスタートです! これからもよろしくお願いします^^

 

安全・安心がある学びの場のつくり方

 

 繰り返し読み返しています。

 

内容は経済圏としてのコミュニティですが、経済界以外の分野に属するコミュニティ、私の世界でいうと学校や学級、教育サークルなどに当てはめて考えることができます。まだまだ自分の中に腹落ちできていないのが正直なところですが、それではインプットしたことにもならないので、私の経験と照らし合わせて考えたことを記しておきます。

 

第5章 リアクションを設計する

 

佐渡島さんがゴルフを始めたときに、ボールをクラブに当てられなかったエピソードから始まります。野球やテニスのはやい球は対応できるのに、止まっている球に触れられない。その難しさをコミュニティに当てはめて考えた場面です。

 

以下引用

これをコミュニティにあてはめると、どうなるか?コミュニティに入ったときに何をやるのかがわからないと、人は動くことができないのだ。多くの人にとって、「なんでもできる」は、「なんにもない」と同じだ。よくできたネットサービスは、サイトに行くと、一番初めに何をすればいいのかがすぐにわかって、自然と手を動かすことができる。それで、初めの一歩をクリアすると、安心・安全が確保されやすくなる。

 

 私の場合。1年目にチャレンジした『学び合い』。

 

5年の社会「水産業

「魚がどのように市場に運ばれて、消費者のところにたどりつくかノートにまとめることができる」

 

課題を提示すると、ざわつく子ども達。

 

C「まとめ方が分かりません」

T「自由にまとめていいんだよ。イラストとかつけてもいいから」

C「自由にやれって分けわからんし!」

T「教科書写してもいいからさ、自分なりにどのようなルートで魚が運ばれていくかまとめてみよう。ノートまとめの練習にもなるからさ」

 

今思えば、ほんとにひどい。ありえない授業です。責任の移行モデルで言うと、教師の責任放棄ですね。見本も子どもの実態を踏まえた足場もない。 この失敗は、単なる課題の丸投げが子ども達の学びの安全安心を脅かし、主体性を育むどころか返って不安を助長するということを教えてくれたのです。


初めの一歩を全員が踏み出せることで安心安全がもたらされる。ただし、道が整備されすぎてもよくないんですね。この点については、この章のあと、箕輪さんとの対話の中で学校型システムがもたらす負の影響が例としてあげられています。


以上

読書メモ、ここまで。

あー、浅い笑



環境がもたらす力~図書館と教室~

私は息子の育児の送り迎えと家事の合間に、最寄りの図書館に出かけ読書をしたり教材研究をしたりして過ごしてきました。時間として約2時間。これが、とっても集中できるんです。やはり「環境」が持つ影響力はすごいなと思うのです。

 

ただ、私の悪い癖で出発前にこんな葛藤がよくありました。

「図書館までの往復時間がもったいない」

「家でやった方が好きな時に飲み物も飲めるし集中できるんじゃ・・・」

「車でスタバまで行こうかな」とかとか。

 

無駄な葛藤です。

 

で、迷いに迷ったあげく、家でやることもあったのですが、不思議と集中力はすぐ切れてしまう。スマホを触ったり、目に入った記事や本を読んだり・・・

 

何が原因なのだろうと考えると、この状況って外部刺激が強い状態なんですよね。

 

それに比べて、図書館というと・・・

 

周りにあるのは、何千冊もの本と読書にのめり込む利用者たち。

雑音はページをめくる音ぐらい。

 

結局、熱心に読者をされている人たちがいる環境に身を置くと「あっ、自分もやらなきゃ!」って思っちゃうんですよね。周りがやってると自分もやらなきゃってなるでしょ。意図的に影響を受ける場所をつくるわけです。

 

さて、環境が与える影響力はそのまま学級経営や授業にも生かせることです。

 

例えば昨年の学級の『学び合い』

 

なかなか学習に取り組めない児童がいました。ノートも開かず、机に突っ伏したままの状態の日が続く中、いろんな子たちが声をかけるわけです。

 

「いっしょにやろうぜ。」と誘ってくれたり、

「ぜんぜん、進んでへんやーん。やばいぞ!分からんのどこや」と気遣ってくれたり。

 

そんなこんなで最終的には自分から課題に取り組めるようになったのです。その児童曰く「勉強せなやばいなぁって思ってん。周り見てたら一生懸命やし、○○(いつも一緒にいる友達)もなんか頑張ってるしなぁ」と、正直なところ、焦る気持ちが彼を勉強へと向かわせるきっかけとなったのですね。

 

集団の成長が「学ばないと損だ!」と思ってしまう環境をつくることにつながる。各教科の魅力や教材レベルで学びに向かわせることも大切ですが、環境から学びに向かわせる視点も大切なのではないでしょうか。

 

図書館の利用から環境面の大切さを改めて感じたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

同じ空気を吸って、話さないと始まらない

 

metch96.hatenablog.com

 前回の記事です。

 

『学び合い』とは言わずにやると言ったものの、実際はかなり難しい状況が待ち構えていると思います。習熟度別担当ということは、その担当するクラスがある一定の学力ラインでまとめられた集団であるということ。だからといって多様性が失われるわけではありません。ですが、担任とは違った授業展開をすることで、かえってマイナスの効果を生み出してしまうのではないだろうかという懸念点があります。

 

そんな心配はひとまず棚に置き、1学期で扱う単元の課題づくりも進めていますが、子ども達の姿なしには決定打が打てません。語りだってそうです。だいたいの話す内容を整理し、練習もしてから本番に臨みますが、子ども達の姿を見て、前に立って、初めて魂の宿った言葉になるものです。

 

同じ空気を吸って、授業や休み時間で関わって、話さないと始まらない。昨年も関わった子たちが多くいる学年ではありますが、まずは「出逢い」からスタートしていきたいなと思います。

 

早く子どもたちに会いたいです。

 

子ども達なしには妄想で終わってしまいますから。

 

『学び合い』とは言わずにやる

今週の金曜日から現場に復帰です。あっという間の2ヶ月でした。

復帰後は習熟度別算数の担当となります。習熟度別は個人的に好きではないのですが、学校のシステムにはあらがえません。仕方ない。

ちなみに、授業は『学び合い』という言葉を使わずに『学び合い』をやろうと考えています。万が一、子どもたちに授業内容で分からないことがあると質問されれば答えるつもりです。理由はいろいろとありますが、担任ではないということが大きいでしょう。

それでも徐々に自分の周りにいる仲間を頼った方が得なんだよということをじわじわと実感させていきたいと思っています。

『学び合い』とは人間主義の授業?

モヤモヤもしてないんですが、思っていることを書き連ねます。

 

『学び合い』って結局のところ人間主義の授業?なのか。

 

 西川先生は、教授(子どもたちから見れば学習)は子ども達の役目であると言い切っている。教師はできるだけ介入しない。でも、この実践がめっちゃ上手くいく人とがいる一方、子ども達をうまく学びに向かわせられず困惑している人もいるじゃない。僕の知っている人でも『学び合い』から離れてしまった人は結構いてる。人間主義の授業では、結局授業をつくる主体が「教師という人間」そのものになってしまっているんだよね。教育技術ではなく、子ども達の主体性に委ねているはずが、結局その場の学びを構成するのは「教師そのもの」であるという。

 

で、この人間主義だと思ってしまうのも実はやっかいで、上手くいかなかった場合、「1人も見捨てない」という哲学的な言葉を頼りに、授業の客観的な分析を捨ててしまう。子ども達は上っ面だけの学びになり、もともと教科主義や技術主義だった先生も、授業に物足りなさを感じてしまう。(これは聞いた話ではなく想像です)

『学び合い』から離れてやめた人。一方、『学び合い』を糧にそれをさらに進化させようとしている人たちって、ここらへんに葛藤があったのかなぁと思ったのです。

 

失敗本だけでは、きっと救えない方々が多くいるんだろうなと。

※『学び合い』を人間主義でまとめてしまってますが、ここでは語りや課題設定、見取り、可視化など、授業をよりよい方向へもっていくための技があることは棚においておきます。

文字を読めるようになると文字ばかり見てしまう。


「お父さん育児休暇っていつまででしたっけ?」

「えーと来週の金曜日から復帰ですよ。」


「あ、そうなんですねえ。お父さん.絵本のに興味あったじゃないですか。それで伝えたいことがあってね。」


「だんだんと息子さんは文字に興味を持つようになると思うんですよ。でね、その様子を見ると親っていうのは、「あーこんなに読めるようになったんだねすごいねっ」ってなるものなんです。じゃあ、もっと読めるようになるために、文字の読む練習しよっかってなっちゃったりして。でもね、次第に子供が文字を読めるようになると何が起きるかって、絵本を読んでもね子供たちは文字ばっかり見てしまうようになるんですよ。絵いろんなことを想像して考えたりしてほしいのに、文字ばかりを見てしまう。これとてももったいないことなんですよね。私たち園では読み書きの練習を一切しないと言う事を決めています。それは小学校で習うことだから。この園の子たちでも早くから文字を読めるようになって、絵を見なくなってしまった子って結構いるんですよね。悪いことじゃないんだけど、私はもったいないなって思うんです。焦らずに、それだけを伝えたくて」


 早くから文字を読めるようになってしまうと絵を見なくなってしまう。まさかそんなことがあるなんて。


小学校では文字を読むのが苦手で読解の問題に困ったり、音読が苦手だったりと、読めないことが課題で苦労する子たちがいるのに。それとこれとは別か。


教育と言うのはほんとに奥が深い。まだまだ知らないことばかりだ。


息子の子供への送り迎えをするたびに新しい発見があり、今自分が働いている公教育における教育とそれ以外の教育、幼児期の教育とそれ以降の教育、ちがいや背景をもっともっと学びたいなぁと思った次第です。


ゆびさしな〜に? (はなしかけえほん)

ゆびさしな〜に? (はなしかけえほん)


息子のお気に入りの本らしいです。ちなみに、先生いわく、大人はあまり面白いとは思えないそう。子どもの見てる世界は大人の目では捉えないられないのかなぁ。

権力による支配は気づかぬうちに

ダークペタコジー

暴力・服従・うそ・賞罰・欲求充足の禁止・条件付き愛情・操作・監視・屈辱などを用いたしつけ、教育。「理不尽と思える「罰」、世界戦に出たいという「欲求」充足の禁止は、彼の心に恐慌を引き起こしたに違いない」*1

 

 

日大選手の記事がFacebookに載っていました。

 

ダークペタコジーという言葉、初めて知りました。

 

私たちだって決して他人事ではありません。

 

今、運動会が春に行われる学校は練習の真っ只中です。

今回の日大の件と内容は異なりますが、我々教育者は運動会の練習でこのダークペタコジーを知らず知らずのうちに行使してしまっているときがあるのではないでしょうか。

 

「やる気が感じられない。立って練習見とけ」

 

「やる気がないなら出ていけ」

 

残念なことに、私はこの見せしめのようなしかり方を、運動会の練習に限らず授業中でも聞いたことがあります。

 

そして、子ども達から「やらせてください。先生」と言わせる。

 

この一連の行為にダークペタコジーを行使しているという自覚はないのかもしれません。でも、例にあげた指導は暴力的であり、操作的であり、決してスマートな指導ではないことは冷静に考えればわかること。

 

私もそのような言葉がでかかったときや、「じゃまするなら廊下に出とき!」と実際に言ったことがあります。教師1年目のときでした。(1年目だから許されるわけではありません)

 

様々な文脈の中で、感情が影響し言葉は生まれるものです。今回の一見から、私たちは教育者としての在り方を振り返らずにはいられないはずです。

 

 

自戒をこめて。

 

*1:47NEWS「日大選手に心からエールを ダークペタコジーの脱出」より

『学び合い』のHPを作りました!

 

manabiai-osakadaiti.jimdofree.com

 

『学び合い』のHPを作りました。

サイト名は「みんなでつくる!『学び合い』」です。

 

目的は、『学び合い』の肝となる課題をはじめとした授業コンテンツの共有と蓄積。それに伴い、より高度な授業設計が可能になればと考えています。簡単に言うと、『学び合い』のアイデアボックスを作りたいと言ったらいいのでしょうか・・・(いい言葉が見つからない)

 

少しでも全国の実践者のお役に立てればと思い作成した次第です。

 

とはいえ、コンテンツはまだまだ未熟・・・

 

「試行錯誤」を合言葉に、進化し続けます!

 

 

時代は変わった

 いまある仕事の多くはなくなり、子ども達は「いまは存在しない仕事」に就くことになると言われています。アメリカの学者さんが言ってたんだ。もう名前忘れちゃったけど・・・。落合さんも、堀江さんも口にしていた。10年後の仕事図鑑という本がでるぐらいですからね。よく聞く話です。

 

では、今後の教育に求められる力とは何か。上記の話から言えば、いまは存在しない仕事を生み出せる能力を育む必要がでてくるわけです。実際にニッチな分野を狙った新規事業も増えております。おー、そこに目を向けるのかぁと。グローバル規模なものもあれば、ローカルな規模で成功を収めている事例もあります。10年後は分かりません。こんなこと私にはできない苦笑

 

仕事を生み出せるなんてほんと優秀。新規事業を生み出し、産業界に大きなうねりを生み出せる人なんてほんと一握り。さらに、そのような方々は学校教育なんかあてにしていない。自分で学んでいっちゃいますから。

 

では、上記に属さない圧倒的大多数の人はどうすればよいか。

 

それは、自分にとっての幸せの条件とは何か考えること。教師も同じく。高学歴が万人にとって本当に幸せなのか。全員が同じレールを歩めるはずがないのです。

 

1日8時間×1年(正確には1年もないけれど)

 

10年後、20年後を見据えて、私たちは子ども達に何を語れるでしょう。現在から未来ではなく、未来から現在を見る。

 

つながりさえあれば、人生の苦難は乗り越えられるなんて簡単に言いません。けれど、つながりがなければ乗り越えられないことはたくさんあるのです。

 

 

 

 さて、今日はこの本を再読しました。

親なら知っておきたい 学歴の経済学

親なら知っておきたい 学歴の経済学

 

 

読後、本の内容を妻と共有。

「中途半端に大学進学は勧めたくないね。どう生きていくか。何を学びたいのか。そんなことをたくさん話していきたいね。この本に書かれていることは決しておおげさじゃないと思うよ。」

 

とりあえず、有名私立大学に入れば就職できる!数年前まではこの価値観で私も生きてきました。でも、時代はもう変わってしまったのです。