子どもはたとえどんなに聡明でも、導きを必要とする
最近何度も読み返している本。
- 作者: レイフエスキス,菅靖彦
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2007/11/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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3章『読書を自分のもにする』
ここでは、リーディングワークショップのような取り組み内容について記載があり、読書家を育てるために必要なこと、読書家になることで生まれる恩恵について語られています。うんうんと頷きながら読んでいるのですが、この章を読むたびに立ち止まってしまう言葉があるのです。
子どもはたとえどんなに聡明でも、導きを必要とする。食べ物を選択する場合も、本を選択する場合も、子どもたちが正しい道を見出すのを大人が助けてやらなければならない。
この導きという言葉。
ここ2年間『学び合い』と言う実践に取り組んできて、葛藤した言葉でした。
『学び合い』では教師の役割である教えるという行為を子どもたちに委ねます。「一人も見捨てず、全員で課題を達成する」という大目標に向かって、全員で力を合わせることを求める実践です。そのため、私が自分から動きだせない子の存在に気付いていることがあっても、私からは声をかけません。全員達成のために助け合うのは子どもたちの役目だからです。よく言われる「ある子を先生が助けると、その子をサポートするのは先生の役割だと思われてしまう」という状況を避けるためでもありました。
ですから、動き出せない子(自分から教えてを言えない、解き方が分からず困っている)がいた場合は、その子の動きや周りの子たちがどう働きかけるのか、子どもたちの様子を見守っていたのです。それで、周りの子たちがサポートすることでつながりが生まれるケースもありました。私が動き出さなくて良かったと思う場面も少なくはなかったのです。
でも、自分の中に違和感が残ったままなのです。
それは放課後の出来事でした。『学び合い』を支持するある子にこのような質問をされたのです。
「先生って作家の時間や読書家の時間、体育、図工とかは積極的にアドバイスしてくれるよね。算数や社会(『学び合い』)では何でせえへんの?気が付いたことはアドバイスしてほしいんやけど」
この言葉を聞いて「そう言われたらそやなぁ。何でやろう。」と感じたことは覚えています。肝心の答えは「目的が違って・・・」とかしどろもどろ答えていたと思うのですが、それぞれの実践で自分の在り方にブレがあったのでしょう。
この本を読み返すと、この時の記憶が蘇ってしまいます。きっとこれだけ引っかかる部分というのは、真剣に向き合わないといけない部分なのかなと思います。