空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

シンプルがいい。

結局のところ、学習の主語が子どもたちへと滑らかに移っていくようなシンプルな展開にしていくこと。日本語おかしいかな。つまりは『学び合い』を装飾しすぎると、うまくいかないとことが増えるかもって話。なんだかんだシンプルな実践がいい。今日の反省でもあり、気づきです。

何より嬉しかったこと

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「速さ」の学習がスタートしました。第1時は「豆ひろいゲーム」で実際に速さを体感し、日常にある速さと結びつけながら、その意味や表し方をおさえました。追試実践は算数授業研究特別号21の「あなたにでもできる「わたしの実践」です。


結論から言うと、とても楽しかった。子どもたちの知っている「速さ」は、それぞれ比べ方が違っていることを体験的に学べたからです。


いつもは『学び合い』で授業をしているため、一斉授業でしっかり板書もしてという授業は久々でした。『学び合い』では、導入段階から子どもたちに任せる先生がいらっしゃらいます。私も昔はそうでした。教科書を開いて「はい、どうぞ」です。でも、それってなーんにも面白くないなと今となっては感じています。各単元の価値や意味なんてつかめない。


第1時の導入こそ、体験的な学びから、日常にあるものを算数的な見方で照らしていく授業がしたい!(表現が上手くいきません) といった思いを抱えながら、教育書を読み漁っていると、ステキな実践に出会えました。



以下、日常生活にある速さ比べを豆拾いゲームと結びつけて考える時間の子どもたちのやりとりです。


「掃除の時間はいかに早く終わらせるかで競うからAの速さやろ?(作業量あたりの時間)」

「え?時間単位の速さやろ!10分でゴミ何個拾えますかやったら、Bの速さやって。(時間単位の作業量)」

「そもそも、その2つ比べ方がちゃうやん」

「あっ、ほんまやわ。」



追試が上手くいったのはもちろんだけど、何より嬉しかったことは、追試案を学年団に提案して、全クラスで同じ実践ができたこと。同僚からも「めっちゃ盛り上がったわ!日常生活の速さも結構言えてたし〜!」と有難いお言葉。同僚との協働が何よりの喜びです。実践を独り占めしちゃ勿体無いしね。

出過ぎた杭になる。

自分に足りないもの。それは圧倒的な結果。

 

かなせんの授業は楽しく学べる!成績が伸びた!というフィードバックは授業アンケートからも明らかで、子どもたちの9割~10割弱が『学び合い』の授業に満足している。単元テストの平均点は80点~83点を推移。悪くはない。でもこれで満足してはいけない。あともうひと超え。平均点90点はコンスタントに超えるようになっていってほしい。同僚が「えっ!?どないしたらそんなに成績伸びるの!?」と授業のいろはを聞きたくなるようなレベルまで。でなければ、新たな提案はもの珍しさで終わってしまう。

 

昨年で、平均点90点以上の段階は3学期になって訪れた。ちょうど『学び合い』を初めて4か月がたったころ。協同の文化が根付き、援助希求が安心してできる雰囲気はあったものの、なぜかテストの点数は伸び悩んでいた。理由は単純で授業とテストの内容が一致していなかったり、助け合えていればそれでいいと「ほんとうの分かる」にこだわる姿勢を貫けていなかったからだ。テクニックの面と、教師が単元テストの結果を本気で求めきることが大切であると学んだ。

 

馴れ合いの『学び合い』では結果は出ない。そのことは去年の経験からもわかっている。今年と去年の違いは、これまで以上に上位層が自分に必要な学びを進めることを奨励している点にある。課題を解決した子たちは、「研究」というテーマで参考書づくりや説明書づくり、問題づくりに励む。「全員達成」の言葉で、教えてにまわることを強制せず、「教える」or「自分の学びを進める」かは子どもたちの選択肢に委ねている。ただ、全体の共通理解として「聞かれたらいつでも答えられるように、「心の窓」は開けておこう。いつでも聞いてええでってみんなが思えるクラスってええやん」という心構えを持つように声をかけている。協同学習では、自分の学習を大切にすることと同等に、友だちの学びや希求に応えることが、学習者1人1人の責任である。ここが抜け落ちると、学習は単なる自己責任で終わってしまう。そこに協同の文化はない。

 

話がそれたので戻す。課題もある。上位層の子どもたち(研究に進む子たち)は、学び方や創作物に工夫がたくさん見られるようになった一方、テストに向けた準備が少し緩くなってしまった。結果、100点を取れるような子たちも85点~90点という点数を取る子たちが増えてしまったのである。

 

上位層の突き抜ける学びと集団としての学力(テストの結果)の保証。どの層も必要な学びにアクセスできる学びの場。ここにこだわらず、中途半端な結果で満足していては、「賢い子たちが比較的多いから、助け合ったり、発展的な課題に取り組むことがそれなりにできるんでしょ!?結果が出ないのなら、教え込む一斉授業の方がまし」と思う人もいるだろう。担外という立場でどこまで可能か。私は塾的指導ではなく、学び方のエッセンスを取り入れて勝負したい。一方、去年と同等のレベルまで集団を育てきることができれば・・・と去年の実践と比較してしまう自分もいる。子ども集団の力で点数が跳ね上がる事実も知っているから。

 

現状を変えるカギとなるのは『学び合い』で培ってきた「分からないことは聞く」「困っている人がいたらサポートする」の対人スキルだけではなく、「学び方」と更なる環境整備。ここに焦点を当てないといけないだろう。

 

ここからが勝負。出過ぎた杭じゃないと変化なんて起きやしないんだから。結果にこだわろう。

 

 

子どもたちが「問い」を持つ余白はあるか

研究授業シーズン。ようやく授業を見る視点が身につき、検討会でも自分の考えを言えるようになってきました。って、まだその程度のレベルなんですけどね…とほほ、


さて、授業を見ていると「予定調和のある授業はやりやすい。それは誰にとって?これは誰のための授業なの?」という疑問を持つことが増えてきました。


あらかじめ用意された考えやまとめの短冊。

多くの授業が「先生のため」の授業になっていやしないか。


「お話読んでて、気になる言葉なかった?〇〇気にならへん?この言葉どういう意味か考えてみようか?」


この発問に、子どもたちが考える余白はこれっぽちもありません。「〜について考えなさい」と先生が指定したことについてしか考えることができない。これが繰り返されると、自分で「問い」なんて持てるようになるはずがない。自分の「学び合い」もただ課題を与える授業になってしまってないだろうか。そこに問いを持つ余白はあるのか。そもそも問いとは何なのか。そんなことを考えています。





理想より子どもたちの思いを…

『学び合い』では、教授(学習)は子どもたちの役目だ。教師は教えてはいけない。実践して2年目はそう頑なに考えていました。


3年目の昨年は、それまでと比べると、難しいと感じる内容があれば、授業冒頭にミニレッスンをするようになりました。それでも「教授は子どもたちの役目」という感覚は強く残っていて、友達と何度も相談しても分からない子や、対人関係が苦手で自分から聞きにいけない子がいても、「見守る」という選択肢をとってきました。実際にその「見守り」が功を奏して、子どもたちの変容に結びつくこともありましたが、中には「見守る」が強すぎて、「先生は助けてくれない」と感じていた子もいたようです。(卒業後の後日談です)


よく言っていました。「学び合い、助け合うのは君たちの役目なんだ。10人聞いて分からなければ、11、12人、全員に聞いて分からなかったら、先生所に来なさい」と。聞く姿勢を説くときに、この言葉は良いかもしれません。でも、今となっては、ただ単に強めの「語り」に頼るしか術がなかったのでしょう。


一昨日転機が訪れました。「拡大図・縮図」の第8時を終えた休み時間に、第1時の学習内容を教えてほしいという子が数名いたので、指導していました。


「こんな感じで、先生にもう一度解説してもらえる時間がある方がいい?」


「うん、めっちゃいい!その方が安心する!友達に何度も聞いたけど分からなくて、先生に質問する時間つくれなかったから」


「よし、分かった。やってみよう」


迷いはありませんでした。早速教務に相談し、机と椅子を手配。ミニ授業スペースを教室に設けました。


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後日、もう一度解説してほしい内容をアンケートで集約し、子どもたちのニーズに沿ったミニ授業を行うことにしました。人数は最大8名で、時間は10〜15分ほど。ホワイトボードを使っての指導です。


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他の子どもたちは、必要に応じて友達と相談しながら課題を進めます。これは協同の文化が根付いてきたからこそできること。机は常にアイランド型です。

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ミニ授業終了後、驚くことがありました。自分から友達に聞き行けない子が、私に教えてもらったことを説明し合っていたり、算数の得意な子たちに「なぁ、俺の説明聞いてくれへん。自分ではできるようになったから、説明もがんばりたいねん」と口にしていたのです。どんな方法であれ、自分できるようになることが自信になり、友達と学び合う一歩を踏み出す勇気となる。周りを見ると、今まで動かなかった子達がいきいきと学んでいました。


現在このスペースはアンケートによるミニ授業で使う場合と教えてほしいときにこのスペースに集まり、教師や友だちのサポートを受ける場としています。


『学び合い』の授業観では「教師は教えてはいけない」とは言っていません。子どもたちだって大人と一緒で有能なときと力を発揮できないときがあるもの。そのときの教師の役目は何でしょう?見守ることでしょうか?教師が教授する環境をつくることでしょうか?


の『学び合い』は変わり続けています。



酔ってるわけではないけれど…

「1人も見捨てない」


この言葉をどう解釈するかで、教師の語りも環境整備も、また子どもたちの動きも変わってくる。つまり、実践者の捉え方によって『学び合い』の実践も異なってくるということです。


では、1人も見捨てないを願う『学び合い』の実践者全体に共通していることは何か。それは学力が多様な子どもたち全員に、学習指導要領で求められる最低限の内容を身につけさせること。そらを実現するために、教師の力だけでなく、「全員達成」という旗を掲げ、子どもたちにも協同を求めることでしょう。「学校はみんなが賢くなれる場所。そんな教室になるように、先生と君たちで力を合わせていこうね。」と子どもたちには伝えています。


大切なのはここから。


「教師の仕事は目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもたちから見れば学習)は子どもたちの役目である」という授業観。この授業観をそっくりそのまま受け取って、私は沢山の失敗をしてきました。具体的な内容は言えませんが、その時の私は「教師は教えてはいけない」と思いこんでいたのです。難しいと思う内容も、しっかり語って任せれば子どもたちは有能だから達成できる!と本気で思っていました。


ね、無責任すぎるでしょう。子どもの姿を見ずに『学び合い』的な授業を成立させることを目的にしていたんです。そんな形を追い求める教師の授業がうまくいくはずがありません。絶対に。目標の設定も環境の整備も、全ては目の前の子どもたちから始まるはずです。私はそのことに気がつくのに2年かかりました。


他の授業形態でもそうです。何のためにその技法を使うのか、何のためにペアトークをするのか、何のために可視化するのか、全て理由があって願いがあって力を発揮できるもの。形だけなんてなーんの意味もない。形だけにしたことで失敗に気づければいいけど。


酔ってるわけじゃないのに。少し辛口になってしまった。いかんいかん。

学び方をアップデートせよ。

教師であればと考えがちですが、教師も人の子。

実に多様で、それぞれの個性が学級経営や授業の在り方ににじみ出るものです。

 

そして、それは「学び方」にも言えることで。「学ぶ」ことに関する価値観は、驚くほど多様です。そこで、3つのタイプに分類してみました。多様と言いながら3つです。

(もっと分けようがあったとは思いますが・・・笑)

 

①学びたくて学べちゃう人。

②学びたくても学べない人。

③学べるのに学べない人。

 

現在、私の関心があるのは②の「学びたくても学べない人」です。なぜなら、今の私がそうだから。この②の人たちは、パートナーがいたり、子どもがいたり、ケアが必要な身内がいたりと、「自分の都合」だけで時間を使えない状況にある方を指しています。言い換えると、「自分の好きなように、民間教育団体の勉強会のような外部の学びの場にアクセスしたり、ゆっくり時間をつくって読書をする時間を確保したりすることが難しい状況にある方々」です。

 

私の場合はというと、家族との時間を優先することが増え、独身時代のように好きなだけ民間の勉強会に参加することが困難になってきました。「あぁ、これに参加できれば、今抱えているモヤモヤを解決できるかもしれないのに。時間さえあれば・・・」と思ったことは一度や二度ではありません。まぁ、こんなことを悲観ばかりしていては、家族に申し訳ないので。

 

何が言いたいかと言うと、「外部のセミナーに頼る学び方をしていた自分は、自分の成長に必要な『学び方』をアップデートしなければならない段階にある」ということです。それは②の「学びたくても学べない」人たち。つまり、自分以外の要素で「学び」に制約がかかってしまう方々にあてはまることだと思います。「家族をもってから、学べなくなった」ではやはりもったいないし、家族を言い訳にするのもなんだか悲しい話ですもんね。

 

私の場合、土日は家族の時間。空いている隙間時間は平日の通勤時間と早朝の1時間、息子たちを寝かしつけた後1時間ほどの仮眠をとった夜の時間です。(今時計を見ると0時過ぎてますが・・・)それら時間をどのように有効活用していくのか。自分なりに工夫していることをまとめようと思います。今回はまだまとめていません。今後の話です。

 

それでは、今から少し読書をして寝ます。

おやすみなさい。

語ったことは何度でも!

『学び合い』をはじめて、約3か月が経ちました。3クラスともそれぞれの成長曲線を描き、自分で必要な学習方法を決め、自分から学びとろうとする子どもたちが増えてきました。ただ、3か月経ったからという訳ではないのですが、一番大切にすべきことへの意識がちょっと薄らいできているようにも見えます。

 

それは「分からないときは聞いた方が得」であること。

 

単元の中でも難易度の高い内容になると立ち止まってしまう子たちの姿がまだまだ見受けられます。単元自由進度の『学び合い』を始めてから「この時間に分からなくても、単元を通して分かるようになってね。」とよく伝えています。でも、この言葉は子どもたちに安心感を与える一方で、学習に怠慢さをもたらしてしまうこともあるかもしれません。そうなるのは私の語りがまだまだ甘いから。そんな誤解を生まぬよう、何度も何度も原点に立ち返って語るのです。(語りだけに頼るのは…という議論はひとまず棚に置いておきます。ここはあくまで語りの必要性と浸透性を考えましょう)

 

実際は分かりませんが「今日は手を抜いてもだいじょうぶ。明日がんばればいいや」という言葉に変換して受け取られていたら・・・単元自由進度をやる意味なんてなくなります。「本当のわかる」にたどり着く学びの価値を理解した子どもたちは、その時間に分からなかったことを休み時間に解決しようとしたり、放課後友だち同士で相談したり、もう一踏ん張り家でも考えてきたりと、授業後の姿に変容が見られるようになるものです。「くそぉ。分からなかった。次こそはがんばるぞ」とどれだけ思えているか。この状態になるまでは、繰り返し「学ぶこと」について語る必要があるでしょう。

 

「分からないのにじっとしているのはもったいないよね。友だちにヒントをもらうのか、答えを見てから考えるのか、答えを見てから友だちと相談するのか。「分かる」にたどり着くための道はたくさんある。考えてみなよ。放課後もよく遊ぶ、でも算数は苦手なBさんと、学校で少し喋る程度の算数を教えるのが得意なAさんとだったら、どちらの力を借りた方が算数得意になれそう?Bさんの方が話しやすいかもしれないけど、Aさんに聞いた方が「算数」は分かるようになるかもしれない。仲の良い友達といることが目的になっちゃうと、学び合うふりをしちゃうよ。

 

繰り返し何度も語ることに対し、子どもたちが「またその話!?」という顔をするから言いにくいと仰る方がいます。でも、それは教師自身が「また言わないといけないのかなぁ。何回いえばいいんだよ」と思ってるからじゃないかな?


「10回言ってダメなら、100回言え。それでダメなら1000回や。1回言って変わるなんて、そんな楽なことはない。それがこの仕事の大切なこと」

1年目に組んだ大ベテランの主任に言われたこと。極端な例ですけど、僕の心にこの言葉は生きています。

【終了!第1期『学び合い』の課題づくり伴走PJ】

『学び合い』の課題づくり伴走PJ第1期が終了しました。まず、この企画にチャレンジしてくれたパートナーの皆様に感謝します。私自身、とても学びのある時間となりました。課題づくりのために購入した本は8冊で、隙間時間で一気に読み、使える技術を精査。私の実践はワークショップ型に偏りがちなところがあって、今回はそれ以外の実践に目を向ける良い機会となりました。返って雑念になると感じたから、先人がつくった指導案に一切目を通さず。素材に何度も目を向け、内言をほりさげ、また練り直す。これの繰り返し。正直簡単ではありませんでした。
 ところで、2人以上の協同的な授業づくりってやっぱりいいです。お互いが必死に学んで、意見を共有しあう。「あ、これいいやん」「あ、やっぱりおかしいなァ」と気づきが生まれる瞬間は本間に最高。こんなやり取りを同僚とできるようになっていきたいんだよなぁ。研究授業ときだけじゃなく、普段の授業についても。とりあえず、今はやりたい人たちと一緒にやる。授業づくりはぼくにって道楽だ。仕事だけど、最高に楽しい。どんな授業になるんだろう。楽しみだなぁ。
 もっと学ぼう。もっと実践を編んでいこう。来年、もし担任を持てたら、協同学習とドラマ教育にどっぷり浸りたいなぁ。

 来週から第二期の募集もスタートします!興味のある方はぜひ!共に脳みそに汗かいていい授業をつくりましょう。

去年とのちがい。やってみよう。

学びの個別化・協同化について。子どもたちがが個々に必要な学習を進め、いつでも援助希求ができる教室。この状態になれば、なおのこと教師のカンファランスが生きてくる。集団の状況を見取りつつ、個別or 小集団への支援を積極的に進めたい。

 

昨年は躊躇してできなかったこと。担任ではないからこそ、そこに踏み切りたい.。ぼくだって自然な状態で子どもたちの前に立ちたいから。

 

これがぼくの『学び合い」なのだ。

 

 

おっ、今日は忙しい。

また明日からがんばりましょう!