空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

遠い話

誰しも理想があって、その理想を追いかけていく。学生の時は「変えなければ。このままではいけないんだ」と大層なことを言っていました。何もできないのに。

 

youth for 3.11(東北の復興支援団体)を離れる時に、当時の学生リーダーにこんな話をした。

 


「僕は教員という立場で公教育を変えたいです」

 

するとその方は…


「教員という立場で教育を変えるか。なるほど。じゃあ、質問するけど、公教育の何を変えたいの?授業の質?教員養成?労働環境?教員という立場で公教育を変えるのは難しいと思うよ。僕は違う立場からがんばるね」

 


同じ教育に矢印が向いていても、ビジョンも戦略も違っていた。僕に具体的なビジョンはなかった。


今ならこの言葉の意味がよく分かる。一教員の立場から、全体に影響を与えていくってとても難しい。変えたいとか言う前に、どこに焦点を当てて、どのような戦略を描いていくのか。どのフィールドであれば、自分の力を最大限発揮できるのか。ここらへん、考えなあきません。

 

「言っていること分かるし、共感する。でも…僕には遠く感じる話だな。」

 

そう感じることが増えてきてしまった。自分にできそうなことやできることを積み重ねるだけ。それで十分だ。

 

 

謝りたい

失敗しました。

 

ある子に期待をかけ、願いをかけ「自分から聞いてみようね」と念をおし、私からのアプローチは控え、30分間彼の姿を見ていたのです。結局、彼はよくつるむ友だちとくっついたまま何もやらず授業を終えてしまった。周りの子たちは「ちゃんとしいや」とは言ってくれるものの、声かけはそこまで。自分の課題に必死。

 

私自身も、普段なら全員達成を求めて周りの働きかけを期待する声かけをしたり、私が個別指導でじっくり関わるといったスタンスをとったりと、他の手立てを打っているのですが…今回は他の子のフォローもあり、その余裕がありませんでした。


それなのに、最後に私がかけた言葉は「今のままでいいの?今日の30分なにもしてないやん。もったいないよ」いう芸のないもの。そんな言葉でやる気がでるはずもないのに。

 

なぜ、そんな言葉が出たのだろう。


心のどこかで、「君は甘えているだけだ。まずスタートを切らない君が悪い」と決めつけていたのかもしれない。いや、彼と同じように学習から逃げていた友だちが成長している中で、彼だってその姿を見て変わっていけるはずと期待していた。この気持ちに間違いはない。


いつもつるんでいた仲間が変わっていく。その姿に焦りがあったのかも。「俺置いてかれてるやん」と複雑な気持ちがあったのかも…。そんなことを考える余裕もなく、授業だから、勉強だから、将来生きていくために考える力・書く力が必要だから・・・と正論をぶつけることしかできない自分にうんざりしてしまった。彼を変えようとするんじゃない。周りの仲間こそが彼を変えていける。落ち着けば分かることなのに。


最後に語るべきは「「ちゃんとやろうや。」の言葉で友達が変わらない。その姿を知っているのに何もしないのは見捨てているのと一緒だよ」という集団へ向けての激励の言葉…

 

いや違う。

 

そんなものが原因ではない。

週末に落ち着いて整理してみる。

 

もう一度この本に目を通してみる。

 

 

 


身勝手な発言をしたことをあの子に謝りたい。もう一度スタートを切りたい。


変わるべきは僕なんだ。

 

勝ち負けじゃないけれど…

 習熟度別算数の担当として早6ヶ月。私の担当クラスはじわじわと人数が増えてきました。形態は少人数授業といったの方がよいか。あるクラスの人数比は習熟度別:担任クラス=33:7です。去年担任したクラス人数を超えました。

 

授業をする上で密かに思っていることは、担任の授業よりも「学びやすい授業」をすること。「かなせんの授業だったら算数できるようになるよ。考えるのが楽しくなるよ」という子どもたちの声を増やしたい。もちろん、担任なのか担外なのか、一斉授業型なのか『学び合い』なのか、子どもたちが授業を選ぶ基準は様々ですから、全員が『学び合い』の授業を受けなければいけないわけではない。

 

でも一斉授業型では伝えられないけど、『学び合い』だからそ伝えられることがある。「1人も見捨てないことの価値」や「頼り頼られることの価値」について、自分の願いを子どもたち全員に届けたい。完全な自分のエゴです。でもこのエゴは独りよがりじゃなくて、今を生きる、2,30年後を生きる子どもたちに必要なこと。その価値を日々の授業で伝えることができるのは『学び合い』や協同学習など、「任せる授業」でしょう。

 

話はもどりますが、大切なことは勝ち負けじゃないですし、この考え方に担任との共同精神なんてありません。分かっちゃいるけど、子どもたちの本音が教師の教育観を変えるきっかけになってほしいとも思うのです。

 

3学期までに担任の先生も任せる授業にチャレンジすることになって、子どもたち全員を2人で見る。できれば『学び合い』形式で。そんなことを密かに密かに願っています。

 

 

 

 

 

 

 

担任だからこそできることってあるじゃない?

12月10日(月) 振り返り

 

いろいろあって今日の対話は「人権」と「子どもの権利条約」がキーワード。「乱暴に権利を主張するのはおかしいよね」と算数の時間にお話。M1の上沼さん批判の話もでた。たった45分の授業だけど、これも『学び合い』だからこそ。勉強と同じくらい、いやそれ以上に大切なこと。

 


 授業終了後。ホワイトボードを片手に、ある子が作った難問に取り組むアクティブラーナーたち。私は子どもが生み出した新たな解き方への理解に苦しむ。なぞぺーにはまって、花まる学習会に入りたいと言い出すやんちゃくん。本部は埼玉だよと伝えると、さっきまでの勢いはどこへやら…。結局、ホワイトボードメンバーは次のチャイムが鳴るまで夢中で問題をつくっていた。「早く教室に戻るように」と声かけをしなかったことを担任に詫びた。

 


昼休みは6年生とオニミチ。宝物ゲットできず。他学年のクラスでは絵本の読み聞かせ。算数だけでは力を持て余してしまう私。

 


「わたしのせいじゃない。」

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図書館開放の時に目にとまり、久しぶりに本を開いてみた。人権について話をしたクラスに読みたいと思いながら、そんな機会を得ることは叶わない。

 


「〇〇は何言ってもだめやねん。」

 


そうじゃない。気づいていないだけなんだ。

 


本の持つ力。

教材の持つ力。

 


それを存分に生かしたい。

やっぱり担任に戻りたい。

最近よくある質問〜授業準備の方法を教えてください〜

「どうやって授業準備をしたらいいか分からない」

 

このような質問を受けることがあります。

 

来年から教壇に立つ予定の学生さんから。

 

これ、かなり危機的状況です。

 

教員免許を与えられている立場で、

 

「授業準備の仕方が分からない」という課題が出てくること自体、かなり危ない話です。

 

授業のやり方が分かりません。

 

という人が子どもたちの前に立つわけですから。

 

かくいう私も通信学生時代に教材分析法は教えてもらった記憶がありません。実践的な授業といえば、実習に行く前の指導案づくり程度だったでしょうか。大学の先生は教えてくれないから、図書館で教育書を読み漁りました。特に池田先生の「教師になるということ」を読むことで心構えができました。

 

授業方法も、また学級経営法もろくに学ばず、どのようにして子どもたちの前に立つことができるのでしょう。どう1年を過ごすことができるのでしょう。

 

働き方はもちろん、教員養成のあり方にもメスを入れていかないといけないのではないでしょうか。免許は一体何を証明するものなのでしょうか。

 

最近よく受ける質問が日本の教員養成の脆さを語っていると思います。

 

 

 

 

つながって挑む

ブログ更新が滞っています。体調を崩していたのもありますが、その他にも登壇の機会を2回も頂き、その準備に追われているのも理由の1つです。それにもかかわらず、1日あたり50〜70のPV数があります。見てくださっている方がいるのは本当に励みになります。ありがとうございます。

 

さて、先日他校の先生から「来年度、市の事業を使って、『学び合い』の実践研究を一緒にしないか?」というご連絡を頂きました。「がんばる先生」という事業です。研究内容は、大阪市教育振興基本計画に示された教育改革につながる教育実践の開発となっており、申請が通過すれば、個人・団体の研究に対し研究経費が付与されることになっています。

 

今、大阪市は市長の方針により、学力テストの結果を教員の給与や学校予算に反映するという方針を打ち出しています。私自身はこの方針に懐疑的です。学力向上を目指すのは構わない…けれどもです。

 

そこで、共同研究のお話を頂きました。テストのための詰め込み教育などなくても、子どもたち同士のつながりを豊かにし、その結果学力を向上させる『学び合い』の可能性を示すまたとないチャンスです。

 

まぁ、そんな簡単な話ではないのだけれど。1人でがんばるよりは、同志と繋がってチャレンジする方が楽しいはず。1人でなんとかしないとなんて思わなくていいのですから。

 

公教育の崩壊は大阪から始まる…か。一体、何のための、誰のための教育改革なんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

変化

1番しんどいクラスの子どもたちに、少しずつ変化が訪れてきました。

 


その背景にあるものは何だろう?と自分が意図的にやってきたことを振り返ると、

 


「認める」

「ほめる」

「任せる」

「支える」

「叱る」

 


を繰り返してきたからだと考えています。

 


このどれが欠けてもだめ。

 


ほんの些細なことでも、

それを価値付け全体でほめる。

 


アカンことはアカンとはっきり伝える。

「それはきみにとって損。それで賢くなれるのかい?」とシンプルに返す。

 


それを状況に応じて個別や全体に返していく。

すると少しずつですが様子が変わってきました。

 


うーん、なんか上手く書けません笑

 


1番苦労したクラスが1番大きく成長した。


そんなことを感じた週末でした。

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その一歩を重ねていく

解き方が分からないとすぐ諦めがちだった彼。

 

「どんな感じや?いけるか?」と聞くと

 

「もっかいやってみる」と言うようになった。

 

自分から中々動き出せない子が

 

「なぁなぁ。説明…聞いてくれない?」と初めて言えた。

 

10年後、20年後、30年後の未来は

 

どんな社会になっているのか想像もつかない。

 

誰しも山あり谷ありの人生の中で

 

「もう一度やってみる」

「困ったら誰かを頼ってみる」

「困っている人に気づいたら声をかけてみる」

 

そんな経験をたくさん積んで大人になってほしい。ただ、人生ってのは甘くはなくて、子どもの時代の豊かな経験があったとしても、心が折れそうなときがある。

 

点と点が断ち切れてしまうとき。

人は絶望と孤独を感じる。

 

そんなときに支えてくれる人はいるか。

人と人が集う場の学校が、その支えとなる人たちを手に入れる場所となりえているか。

 

家族だけじゃなくて、

 

友達や先生。

ご近所さん。

 

つながりはあるか。

つながっていけるか。

 

子ども時代に、

何度もやりなおしてみる。

人と関わる。

この2つの経験を重ねること。

それを通して、仲間を得ること。

 

僕は『学び合い』を押し付けたりはしないけど、こんな感覚を持った人たちが1人でも多い社会がいいなぁと思う。

 

いろんな出来事に揺さぶられる度に、『学び合い』の考え方に共感する人たちが増えるといい。やっぱりそう思ってしまうんだ。授業スタイルとかではなくね。

 

さぁ、今日も頑張ろう。

 

 

 

私はどうかしている

ある出来事があって、最後にこう語った。


「気づいているのに気づかないふりをする人がいる。行動しようとしない人がいる。先生がクラスメイトなら、そんなクラス嫌だよ。人も物も大切にできない人なんて信頼できないし、いい社会なんて作れない」と。


思わず涙が出そうになった


私はどうかしている。でも、子どもたちにはそんな感覚を持ったまま大きくなってほしくない。気づいてほしい。


こんな堅苦しいことを語る教員は全員でなくて良い。だからこそ、私がその役目を担おうと思う。



これは矛盾かい?

「かなせーん!今回のテストは100点とれたかも!」


昼休みにとあるクラスの子どもたちが職員室に報告に来てくれました。『学び合い』を始めた二学期から点数が徐々に伸びてきた子どもたち。一斉授業に比べると、私が教える時間ははるかに少ないのに。


でも、その子は


「算数が面白くなってきた。」

「分かるようになった。」

「かなせんの授業は分かりやすい。」


と言う。


西川先生は「面白い授業や分かりやすい授業は求めていない」と仰っています。一見、「あれ?矛盾してるんじゃないの?」と思う。私もそう思ってた。でも、これってね、主語が「先生の場合」を指してると思うんだ。「先生が面白い授業や分かりやすい授業をすることは求めてない」じゃないのかな?


西川先生、間違えていたらごめんなさい。


かなせんの授業は分かりやすい。

=私の教え方が分かりやすい。


ではないしね。


この前は「◯◯ちゃんに聞いた方が先生より分かりやすい」と言ってくれた子がいた。もう、そうなったら最高だ。ちょっと悔しいけど笑


では、今日はここまで!