空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

虚無感の姿

先日、一斉授業を積み重ねてきた大先輩に問われた。「算数科・数学科の本質を一言でいうとなんだと思う?」と。「うーん」と少し悩んだが、今の実践から言えることを答えとして伝えた。「一言で答える」ってその人らしさが滲み出る。その他に、別の方からはこう問われた。「「読む」と「書く」のつながりに欠かせないものは?」と。これはすぐ答えることができなかったが、授業を見て検討会に参加すると理解できた。というか知らないことばかりだった。僕の中身は本当にからっぽだ。なーんにもわかっちゃいない。

 どちらの問いも僕をドキドキさせた。ただ、そんな問いとの出会いが、僕の虚無感の根源を少しずつはっきりとさせてくれた。僕に足りないものはこれだったんだ。

僕が『学び合い』で見失っていたもの

いろんな方との対話を通して、つい最近感じ始めた虚無感の根源がうっすらと見えてきました。恐らく、僕の予想は外れていない。1年目の授業が懐かしいと感じたのも合点がいく。


昨年は年度途中からフルの『学び合い』にチャレンジした。子どもたちの繋がりは広がり、その一つ一つが豊かになっていった。3学期は僕が何もしなくても、子ども集団の力で子どもたち同士の対話で課題を解決していく姿が見られた。対人関係が苦手だった子たちが、中学校のステージで、他者と関わりながら精力的に活動している知らせも聞く。でも、僕は昨年の『学び合い』で大切なことを見失っていた。その影に隠れた支えとなるものを。「1人も見捨てない」を追い求めることで。


唯一救いだったのは、その見失ったものを失っていたと気づかないまま、知らず知らずのうちに取り戻そうとしていたこと。育児休暇の時間があったから、担外という立場になったから、無意識にもう一度見つめ直そうとしたんだと思う。そして今、その虚無感の中身がはっきりしてきた。今年1年は、外に出る度にそのことを感じることになるんだろうな。


と、まぁ大げさに書きましたけど、何をすれば良いかははっきりしているので大丈夫です。ある仮説も立てています。そして、それが的外れでなければ次のステージに進めるはず。Twitterで呟く暇があるなら、そこに時間をあてよう。



大人の本気見せましょう。

子どもたちの前で、

大人たちが本音を語ったり、

大人たちが本気で協力したり、

大人たちが本気で「あーだ、こーだ」と対話をしたり、とにかく真剣に全力でやる姿を見せてみる。

 

そんな姿を子どもたちにもっと見せるのって大事だ。

 

1年目のときに応援団の担当として、全体練習で指導の時間を頂いたときのこと。応援団の子どもたちは頑張っているけど、周りの声援が響かない。今思えば、それまでの練習過程で応援団以外の子どもたちを巻き込むプログラムデザインもできたのだろうけど。その時は、「このエネルギーの低さをなんとかしなきゃ。どうアプローチしようか」と瞬時の手立てを迫られた結果、たどり着いたのが「大人の本気」だった笑 

 

「応援はね、応援団の声だけじゃなくて、周りで見ている君たちの声も必要なんだよ。要先生に届く声出せたって人、手挙げてみて?ほら~あまりいないやろ。遠慮しちゃだめだめ。1人が遠慮しちゃうとみんな遠慮しちゃうよ。こんなときは思いっきり声を出して楽しまないともったいなーい。ね、先生方、そう思いますよねー?いっちょお手本見せてみましょうか!?」

 

事前の打ち合わせなし。

急な振りである。


普段は物静かな音楽専科が本気で叫ぶ。

子どもたちも「えー!?」とざわつく。

 

ベテランの先生が体をのけぞってブリッチしそうな勢いで叫ぶ。子どもたちは笑う。

 

そして、子どもたちの出番。紅白対決。

声の大きさがどうなったかというと、言わずもがなです。

 

話は変わる。

昨日は地域合同防災学習。私はバケツリレー担当だった。なぜバケツリレーをするのか「初期消火」の意味を説明して、体験スタート。

 

まず、子どもたちでリレー。

次に、子どもと大人の合同リレー。

 

最後は、大人だけ。

バケツではなく、ごみ袋をつかったリレーを企画した。

 

阪神淡路大震災では近くにバケツがない状況もあったようです。そのときに使ったのがビニール袋でした。どうすれば、ビニール袋で正確に速く水を運べるか考えてください。話し合いの時間は3分です。緊急時は初対面同志で知恵を絞らなければいけないこともあります。遠慮せず、どんどんアイデアを出し合いましょう。はい、どうぞ」

 

子どもたちは、話し合いをしている大人たちを囲み、「お家の人たちがどんなアイデアを出しているのか。よーく聞いてごらん」と促した。子どもたちは「すげー。なんでそんなん思いつくん!」と、1つアイデアが出ては、また違う角度からのアイデアが出てくる大人の対話力に驚いていた。結果、どのチームも異なる方法でビニール袋によるバケツリレーを成功させた。

 

これは一例で、日常から大人の本気を見せられることが大切だなと思う。親以外で子どもたちと関わる大人の1人として、本気で語り、本気で生きる。本気でチャレンジして、本気で楽しむ。決して大そうなことではなく。内容はどんなことでもいいから。

 

そういえば、前の勤務校で空手を習っていた職員が子どもたちの前で瓦割をしたことがあった。3枚ほどの瓦を一突きで。その日から、そのクラスの子たちの様子が変わったようです。これは余談か。

 

では、今週もがんばりましょう。

 

 

 

気になる子

気になるの主語は私である。


学校教育でいうと、現場の先生や親御さん。

共通していることは、自分の「普通は〜であるべき」という価値観や相対的な視点でその子を我が子を見ていること。言い換えると、自分の物差しや他者との比較で判断をしてしまっているということ。


前日、息子の運動会を見に入った。まだ2歳の我が子が、自分の所属するクラスの集合場所に向かった後のことである。開会式が始まるまでの、じっと座っている子が多い中、息子はいろんな方向に走り出し、虎ロープを触り、砂で遊び、最終的に先生に抱っこされて戻ってくる。その繰り返し。


こんな場面を見ると、他の子と比べて「うちの子落ち着きないわぁ」と感じても仕方ないかもしれない。僕はというと、「あぁ、動いている方が落ち着くんだろうなぁ。」とニヤニヤしながらその様子を見ていた。


この話題、詳しく書けばきりがなくなるんだろうけど、「普通は座っているべきだ」と自分の物差しやそれが出来ていない子を他と比較することで、その子は気になる子になってしまう。物差しがあるから、他者との比較があるから気付けるわけで、その判断基準を否定するつもりなんて全くなく。それに応じた関わり方も必要になるわけで。


でも、僕の周りで起きてることは「なんで、座ってないの!?じっとしてなさい」的な関わり方が多い。


その場面だけを切り取るんじゃなくて…いや今日はここで終わりにしよう。改めて感じたことは、「気になる子」はその子を見ている「あなた」自身が作り出している。ということ。


良い週末を〜。




「1人の人としてみる」の意味

「子ども扱いせず、1人の人として対等に接する」


この言葉にはどんな思いが込められているのでしょう。


一方、


小学生なんだから。

小学6年生なんだから。

中学生なんだから。

高校生なんだから。

大学生なんだから。


「これぐらい出来て当然でしょう?」


この言葉にはどんな思いが込められているのでしょう。1人の人としてではなく、グルーピングして、その人を一般化する。そこに「あなた」はない。


僕も言ったことがある。

自覚を持てという意味を込めて。



「1人の人としてみる」


一人ひとり違うはずの「人」を一括りで見ないようにすること。その「人」がどんな人なのかを考え、一人ひとりに合った関わりを持つように心がけること。でしょうか?


では、大人の世界ではどうでしょう。



社会人なんだから。

5年目なんだから。

10年目なんだから。


男なんだから。

女なんだから。


「これぐらいは出来て当然でしょう?」



教師の世界でも、「教師なら、これぐらいのことができて当然でしょう?これぐらいの心構えがあるのは当たり前でしょう?」と口にする場面をよく目にすふ。もちろんの専門職として、必要な資質はたくさんあるわけで、そこに甘えがあれば教育のプロフェッショナルとして恥ずべきことだし、その甘さが目の前の子どもたちに迷惑をかけることだってある。だから厳しさも必要。プロ意識も必要。


でも、見方を変えれば、何かしらのアドバイスをするときに、教師である〇〇さんに向けてかける言葉と〇〇さんという人に向けてかける言葉は変わるかもしれない。「あなた」に向けた言葉は、1つ1つ違ってくるはず。クラスにいる子どもたちと接するのと同じように、大人だって「あなた」を見て接するべきときがある。


大人の世界ってその見方を曇らせがちなんじゃなかろうか。大人だから甘えは許されない。だからって、いつも「厳しく接する」だけではあまりにも芸がない。


人として見る・関わるって何なのでしょう。

最近気になっていることなんだな。


ハイブリッド『学び合い』をするときの心構え

まず、ハイブリッド『学び合い』とは


語りと課題提示をして、「はい、どうぞ」と課題解決を子どもたちに任せる『学び合い』(以下、任せる『学び合い』と呼びます)ではなく、授業の初めにミニレッスンを行うような、一斉授業➕『学び合い』を組み合わせた授業のことを指します。


ハイブリッドの展開は本で示されている『学び合い』の授業展開とは異なり、教師が解説を行うため、その時間だけ子どもの学習時間が削減されます。つまり、子どもたちが課題を解決し、友達をサポートする時間が減ってしまうということです。これは1人も見捨てないを願う『学び合い』の実践者としては致命的な状況といえるでしょう。


そんなハイブリッドな『学び合い』で陥りがちなこと。それは教師がミニ一斉授業を行い、子どもたちの学習時間が減った状況にも関わらず、任せる『学び合い』と同じぐらいの課題量を提示し全員達成を求めてしまうことです。20分と30分の学習時間で提示される課題量や難易度は内容にもよりますが、異なるはず。「1人も見捨てない」を願うのならば、そこは調整しないとおかしい訳です。


もし、一斉授業で何かしらの知識技能を子どもたちに伝えてから、課題解決を任せたい場合。結果として子どもたちの時間を大幅に奪ってしまったのなら、子どもたちを見守るだけではいけません。教師も教える側に回りましょう。フルパワーで子どもたちの状況を可視化し、子どもたちをつなげましょう。


本に書いてあることを大切にしたいと思うあまり「えっ!教えるのは子どもたちに任せるべきだと書いてあるじゃないか!?」と思われる方がいるかもしれません。


大切なことは目の前の状況です。


今扱っている教材と子どもたちの力、授業展開によって柔軟に変えていきましょう。大人の世界でも同じ仕事量を10分でやれと言われるのと30分の余裕があるのとでは、心の余裕も成果も変わってきます。


「一斉授業が混ざったハイブリッド『学び合い』をするなら、一斉授業をした方がマシです」西川先生も主張されてます。その真意は、任せるに値する授業展開でなければ、教師の教授がある一斉授業ベースの方が成果が上がるということだと思います。もし、任せる『学び合い』をしたいのなら、任せるに値する目標と環境を設定し、それに必要な時間を十分に子どもたちに与えること。それから全員達成を求めましょう。



中途半端だったからだね。

『学び合い』は考え方だから、いろんな『学び合い』があっていい。その考え方は今も変わらない。けど、明日からは誰がなんと言おうと1時間での『全員達成』を強く求める。


単元自由進度で進めているクラスでは、「自分から「分からへん人おるかー?」と教えにいくんじゃなくて、友達に聞かれたらいつでも力をかしてあげる。心を開きながら、自分の学びを大切にしなさい」と声かけをするようになった。でもそれは、全員達成の縛りから解放したいとかじゃなくて、「全員達成」を意識する子たちがクラスにいたから、集団としてのつながる力が高まってきたからだ。その段階にたどり着いたとき。それが、次の学びに進むタイミングなんだと思う。


話を戻す。明日、全員達成を求めるクラスでは極端な語りになるかもしれない。これまで、課題が終わった子たちは自分がしたい学習を進めていた。けど、きっぱり言う。「課題が終わったら、まずは仲間に声をかけなさい。「5つのかける」の中で自分に何ができるのか考えながら行動すること。自分の力を仲間のために使おう。最後の1人が分かるようになるまで、とことん教え合おう。」と。


もちろん、裸で全員達成なんて求めない。子どもたちの力を最大限発揮させる、今自分ができる精一杯の環境は整えた。昨日はそれさえも不十分だった。これについてはまた後日詳しく書く。


全員達成を求めるなら、教師の準備は万全であれ。そして本気で求めよう。どちらも中途半端であれば、ただの口だけ野郎ですから。





燃え尽き症候群?疲れ?

自分の現在地が分からなくなってきました。『学び合い』できてんのかな?と自問自答しても、「俺は『学び合い』やってるよ」とハッキリ言えないというか。そもそも、自分の実践は〇〇ですと語る必要もないのだろうけど。『学び合い』をはじめ参考にしている実践はたくさんある。でも「〇〇やってます」と言うことに疲れを感じているみたい。いやただ単に疲れているのだろう。

今自分の中にある軸は、

子どもたちと授業をつくりたい。
子どもの姿を声をもっとつかみたい。

これだけ。はっきり言えることは。

どうしたものか。燃え尽きるようなことしてないのにな。


1年目のときに、「ごめん。昨日の授業さぁ、うまく伝えたいこと伝えられなくて。もう一度勉強しよう?」と、しゃあなしで付き合ってくれた子どもたちとの授業が懐かしい。お互い素直だったんだと思う。その当時の授業の方が要領悪いはずなのに、そんな授業がしたいと思う自分がいる。


あー、よく分からないよ。

初心に帰る

 現在、習熟度別算数の担当として、6年生3クラスで『学び合い』を実践しています。2学期からは単元自由進度の『学び合い』にチャレンジしていましたが、3クラス中1クラスでは単元自由進度ではなく、1時間ごとの成果を振り返る『学び合い』に戻すことにしました。理由は、シンプルで「単元自由進度」という名前だけの実践になっていたからです。これは子どもたちのせいではなく、私の不十分なアセスメントが原因。単元自由進度に入る前の1時間ごとの『学び合い』で経ておくべきだった道を、今一度丁寧に歩んでいく必要があると感じました。1時間ごとの『学び合い』のメリットもデメリットも得ることができていない状態と言ったらいいのか。時期早々でした。

 

さて、子どもたちに伝えたことは2つ。

①全員が、自分と友達の現在地を把握すること。

②どうすれば次のステップを踏めるのか、「学び方」を考えられるようになること。

(古田さんの実践「かしこさの階段」という可視化ツールを使っています)

なぜ、この2つが大切なのか丁寧に丁寧に語りました。

 

 

次は、新しく導入した子どもたちの現在地を可視化するツールです。

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開始時は緑の枠にネームプレートがあり、理解度に合わせて移動させます。色の意味は以下の通りです。【青】→説明もOK【黄】→1人でもできる【赤】 サポート希望

(これも古田さんの実践を真似ています)

 

 

いかん、急に眠気が・・・

おやすみなさい。

 

 

 

平均点の中身が大切。

先日、こんな記事を書きました。

 

metch96.hatenablog.com

 

全員が100点を取らなければいけない。なんてこれっぽちも思ってなく。ただ、周りに認めてもらうために、平均点を上げるんだ!という主張に見えてしまう書き方になってしまったのは事実。こういうところがまだまだなんですよね。

 

さて、改めて。私が気にしてるのは平均点そのものではなく、その点数を構成しているもの。つまり、最低点のラインと点数の分布です。点数はヒトスグラムで可視化しています。これは多くの実践者も主張していることで、『学び合い』の本にも書かれていること。最低点ラインが徐々に上がり、結果的に平均点が上がった状態になる。それが子ども集団の力を示す指標の1つとなりうると考えています。