kanasenの『七転び八起き』

大阪の小学校教員かなせんです。『学び合い』の考え方で授業やクラス運営を行っています。発信内容は小学校教育や教師のスキルアップ、育児などから学んだこと。よろしくお願いします。

『学び合い』をするのに一斉授業を極める必要はない。という考えを勘違いしてはいけない

極める必要はないと思う。まだ4年目の、極めたことがない者が言う台詞ではないし、私が言ったところで説得力に欠けるんだけどね。


その中でも、以下のような基礎基本のスキルは最低限必要なのかなぁと思う。これらのスキルがないと、導入5分で語りと課題説明をするのは無理でしょう。


・授業を支える教材研究スキル。

・簡潔に説明するスキル。

・「聞く」力を鍛えるスキル。



…など。



もう一度言うけど『学び合い』をするのに、一斉授業極める必要はない。名人になる必要はない。



でもね、それを真に受けてはいけないと思うのです。勘違いしたらダメだ。



一斉授業にこだわり、とことんやってから『学び合い』に移行した人はやっぱり強い。だって、教材研究の仕方は知ってるし、引き出しも多いから子どもたちの実態に合わせてアレンジできるし。


さらに、初期段階の『学び合い』の課題から、教科の見方考え方を活かした課題づくりへ発展させたり、子どもたちの疑問(質問づくり)から単元構成を練ることだって可能なんだ。私が知っている限りではそう


『学び合い』を始める方に、「指導書の目標を「〜できる」という形に変えて、任せたらいいんですよ」と課題づくりのアドバイスをしている人がいた。最初の一歩としてはいいかもしれないけど、それだけじゃダメ。とっても危険。西川先生の本も沢山読んで欲しいし、最低限の教材研究はしてほしい。


最低限の教材研究というのは、例えば、国語の説明文では〜の指導項目があるからとか、算数では立式に至るまでの過程に図が有効とか、教科ならではの見方考え方を知っておくことができるレベルです。それぐらいのことは最低限分かってないと授業ができないし、良い課題はつくれないと思うんだな。


『学び合い』をするのに一斉授業は通過しなくてもよい。子どもたちに任せるのだから、深い教材研究は必要ない、と短絡的な思考になっちゃう人たちがいることを僕は知ってる。それじゃすぐ頭打ちになるよ。『学び合い』を続け発展させていくのなら、教材研究は必要不可欠。ぜーったい必要。


だと思いませんか?





チューニングを合わせる

修学旅行から帰ってきた翌日。6年生は2時間目からの登校。つまり、私の習熟度別算数からスタートだ。語る内容は特に決めず、子どもたちのとチューニングを合わせにいった。(本当は前の授業を受けて、語りたいことがたくさんあったけど、そこは一先ず封印。算数専科だけど、一先ず)


まずは修学旅行の振り返りから。


「おかえりなさーい。修学旅行どう?楽しかったー?」

「一番楽しかったのは?」

「あの乗り物乗った?」


たった3分ほどだったけど、笑って笑った。子どもたちも修学旅行について話したがっていたんだなぁ。やっぱり楽しかったことって誰かに伝えたくなるもんね。




それから算数のお話。


比例反比例の「性質」と「足跡が残る振り返り」ついて説明し、「せっかくやるなら、いい時間にしよう。」とだけ伝えた。


語りって重くなりすぎてもだめ。伝えたいことはそりゃたくさんあるけど、子どもたちが意識できるのって1つか2つぐらいだもんね。今は熱く語るというよりも、心を込めて語るが好き。気合い入れる日もあれば、伝えたいことはあっても今じゃないと引っ込めることもある。無理せず自然体に。でも軸はぶれずに。


そうそう。去年はね、私の憧れの『学び合い』実践者が言ってたこと真似してたんだ。何をって、学校に来たら勉強するのは当たり前なのだから、アイスブレイクとか入れずにすぐ授業をする潔さみたいなところを。


でも、チューニング合わせる感覚も忘れずにいたいんよね。私の場合は。

一定の距離を置く

表題は子どもたちとの距離のこと。担任のときは振り返りジャーナルを通じて、子どもたちとつながっていました。担外の今も、あらゆるチャンネルを通して繋がることは大切にしています。ただ、お互いのプライベートゾーン(大切にしたいこと)には触れられない距離感がちょうど良いと考えています。聞かれても答えませんし、私から質問もしません。


話題や相手にもよりますけど、私は自分のことをあまりさらけ出しません。オープンなことは大事だと思う反面、少し冷めたぐらいの冷静な態度の時も少なくない笑 友達感覚はとても嫌い。感じたことは、割とはっきり言う。と、そんなことを言いつつ、子どもがフラットな態度で臨んできたとき、同じテンションで関わる時もある。(どっちやねん)でも基本はドライです。これは高学年になればなるほどです。


この記事ではうまく説明できませんが、子どもたちとの間にある一定の線を引いておくことは、『学び合い』をする上で大切だと考えています。あっ、私の場合です。じゃないとはっきり言えないんですよね。褒め言葉もダメ出しも。


結局何が言いたいねんって内容になっちゃいましたね…

「自分」のための授業はいらない

先日、とある事情で『学び合い』的な授業展開ではなく、一斉授業による展開で授業を進めることがあった。冒頭の15分である。子どもたちの様子はいつもとちがう。分かり切ってたことなのに。そんな子どもたちの姿を見て、私は焦る。子どもたちを見る視点もすっかり変わってしまっていた。

 

「書きましょう。と言っているのにおしゃべりをしている子がいる」

「ボーっとしている子がいる」

「もう集中力を切らしてしまっている子がいる」

 

と言った具合である。

 

『学び合い』ではこうはならない。

 

もちろん、私の一斉授業に問題があったのかもしれない。

でも、今回はそれが本質ではなさそうで。

 

問題は一斉授業か『学び合い』かということではなく、子どもたちの実態とは別の理由から、授業展開を変えてしまったために子どもたちは戸惑ってしまったのではないか。

と感じた。

 

いつもなら『学び合い』なのに。いや『学び合い』でないと、太刀打ちできない実態があるのに。外の目を意識して、子どもたちに合わない授業をしてしまった。授業が始まって10分ぐらいたった後、「あぁ、『学び合い』なら、最初にこれだけの量の問題を提示して「はい、どうぞ」と言えば、うまくいったなぁ」と頭の中がぐるぐるしていた。

 

普段やっていないことを突発的にやらないほうが良い。それに、今回の授業は、子どもたちの実態から生まれた、彼らにとって必要性のある授業ではなかった。外の目を意識した「自分」ための授業になっていたのだから。

 

どんなときも子どもたちからスタートするものでありたい。

授業というものは。

 

 

昨年のメモを掘り起こす

昨年の年度末に『学び合い』実践を振り返ったメモがでてきた。でてきたというよりは去年の手帳を振り返ると見つけたが正しいか。


・『学び合い』は従来の授業よりも教師の影響力が大きくなる実践。


・学力下位層の子達の点数は伸び、点数の底上げはできた。


・初期の『学び合い』は学力が高い子たちの時間を犠牲にして成り立つ。それずっと繰り返されると、『学び合い』は上位層を見捨てることになる。


・「文章題を解けるようになる。」とあるが立式の根拠がない。図の整理を介さずして、子どもたちはどのように式を立てるのか。公式頼みになっていないか。他単元の文章題が混ざったとき、太刀打ちできないのではないか。単元テストのときしか点数は取れないだろう。


・説明文の課題は業者テストの設問と何ら変わりない。この授業計画で、子どもたちは説明文の構成や問いと答え、筆者の主張を考える機会はあったのか。結論から言うとない。ただの読み取り課題である。こらは説明文ではない。


・つまり、その教科がその教科たらしめる授業はできていないということ。これは『学び合い』の初心者にありがちなことではないのか。


続く…。



僕のNEW『学び合い』

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個人的にですけど、ようやくNEW『学び合い』の形が見えてきた気がします。詳しいことは後日に譲りますが、簡単に言うと『学び合い』の課題を2つ作ることにしたのです。



プリントから教科書。

教科書からプリント。


同じチームから違うチームへの交流。


教科書が参考書代わりになったり、はたまたチャレンジ問題になったり…。教科書の使い方やそもそも教科書って誰にあったテキストなのさ?という疑問も湧いた。



ただ、この形までたどり着くのに時間がかかりすぎた。きっかけは子どもの姿や言葉だった。それがなければ今の自分はなかったかもしれない。いや、なかっただろう。


子どもをまるごと受け止めて変化していく。その子どもたちに必要な旗印を教師が示す。そして、その道を「君たち」で歩いていくこと。君たちなら、君たちが力を合わせたら、それは可能なんだということ。教師の役目は、その旗印にたどりつくための道をいくつか用意し、支えることなんだ。


そして、上に書いたことが「本気で信じて任せる」ということなんだろうと思う。


先日、大地の会の申し込みの自由記述欄に「『学び合い』を始める人に届けたいメッセー

ジは?」というコメントがあった。


子どもの未来を願い、変わり続ける

そのために学び続けてほしい。



それが『学び合い』を始める人に届けたい言葉かな。



可能性を求め続けたい

教師になったからには授業を通して、子どもたちが変容していく姿を見ていきたい。


多くの先生方がそう思っている…はず。


しかし、学校を取り巻く課題は決して少なくなくて。授業の準備よりも、それ以外の部分に比重があるのが実際のところ。それは僕の学校に限らず。


だからこそ授業を充実させて、子どもたちの学習に対する意識を変容させていきたい。研究したい人たちだけが頑張るではなく、職員全体のムーブメントにしていきたい。


教師が変われば、授業も変わる。

授業が変われば、子どもたちも変わる。


そのための環境をつくっていきたい。

あと2年。仲間とチャレンジしてみます。






ニコニコするだけだった。

単元自由進度の『学び合い』も3単元目に突入。単元は「比例と反比例」です。


「先生!算数検定の準備したいから、予習どんどん進めていい?」


「研究テーマ決めたいから図書室行ってもいいですか?」


まだ比例も終わってないのに、反比例の内容を終わらせてしまう子が続出。


しまいに「先生、今は声かけないで」って…


僕の役割は…


ただ、ニコニコ見つめるだけでした笑

全て任せた方がマシ?

『学び合い』を実践されている先生の教室に入って感じたこと。何を語るかよりも、どう教えるかばかりに比重がいってしまったら、それは『学び合い』ではないのかもしれない。半端な解説をするなら、全て任せた方が良い。私の場合はね。

学校だからこそ

学校だからこそできること。


勝ち負けじゃない部分で楽しめる遊びをたくさん知ってほしい。ドッヂボールだけじゃなくて、昔遊びのような気がつけばみんな笑顔になる遊びがいいな。


そのためにはそんな遊びを知っている人と遊ぶ時間が必要だ。


心を揺さぶるステキな作品に出会ってほしい。それは物語や詩なんでもいい。「これ好きやねん」と言えるものを1つ。


そのためには、たくさんの作品との出会いが必要だ。


たくさんチャレンジして、失敗もする。でも前提にあるのは「分からないことは恥ずかしいことじゃなくて、新しい学びの始まりなんだ。失敗したっていい。またやり直せばいいんだ」という価値観。そう思えるようになってほしい。


そのためには、その価値観を伝える人と、それを浸透させていく時間と環境が必要だ。


仲良しだけじゃなく、自分とは離れた位置にいる人と関わる経験を積んでほしい。


いろんな人がいるから

得意なことも苦手なことも

好きなものも嫌いなものも

価値観も意見も

全てちがって当たり前。

それを前提に「らしさ」を発揮できること。


うまくいかないときに相談できる仲間の存在があり、それを受け止められる仲間であってほしい。


1人じゃないからこそ、困ったときに頼って、困っている人がいたら助ける。そんな経験をたくさん積んでほしい。


そのためには、


多様な人と関わり、自分と他者の違いを認め合うこと。自分と他者がちがう前提で力を合わせていく経験が必要だ。



ずっと昔。

社会がその機能を担ってくれていた。


今はちがう。教師が意図的に機会をつくり、その役目を担わなければいけないんだ。


たくさん書いちゃってまとまりがないけど、

自分の息子が通う教室はそんな場所であってほしいと思う。