空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

新しいステージに入ったと思いきや…

「わかる」と「できる」の間は遠い。子どもたちも教師たちもそうだけど、「やってみた」ことを「できる」に書き換えてしまう人は少なくないように感じる。「できる」ってのは自分1人の力でなし得る力を得た時。友だちや先生に教えてもらいながらは、まだ「やってみる」なんだ。むろん、どの段階においても上を目指す気持ちがあるのならば、その頑張りは認められ評価されるべきだと思う。自分の現在地と上に登るための術。「わかる」から「できる」までに必要なことはなんだろう。

 

「わかる」と「できる」を往復すること。実践してみて、その実践の良いところや課題が浮き彫りになる。その後に専門書を読み返したり、実践者同士で話し合ってみたりすると、気づきや発見が得られるんだよね。最近は、ただ話せばいいってわけじゃないなとも思っている。その気づきや発見の質が「誰と振り返るか」によって変わってくるからさ。若手だけでやることにも価値はある。今のボクにはそれ以外の場も必要だ。

 

『学び合い』のメガネを棚に置いて、4月から教室に立った。以前とはっきり変わったのは、最初から自分のレールを敷かないこと。子どもたちの声をもっと教室に取り入れていこうと、「ボクが」から「私たちが」が学級の文化になるようにね。この方向転換は間違いではなかった。だけども、大きな勘違いをしていたことにボクは気づかなかった。「変わったね。前より丸くなった。柔らかくなった」同業の知り合いからはそう評されるようになった。でも「何かが足りない」ってずっとモヤモヤしてた。その何かに近づくためのピースが少し見つかったんだ。あえて自分のことを厳しく言うと、『学び合い』を棚に置いた自分には、子どもたちの成長意欲を高める術がなかった。その術のないボクに残ったのは中途半端な甘さだけだったんだな。

 

「やってみた」がすぐ「できる」にはならない。やってみて分かることがあるし、またチャレンジして、新たにわかることもある。往復を繰り返すしかないんだ。以前はチャレンジしてみた!みたいなツイートで満足してる時もあったよ。そこに集まるいいね!とかに満たされてね。愚かだね〜笑 そんな「今の自分」も記しておこうと思う。10年選手になったとき、「ボクもこんなことあってね〜」と。

 

新しいは真っさらだ。だから、自分が何を見失っていたのかも分からなかった。その何かを過去の自分からもらえることもあるんだ。今は過去になっていく。その行き来も大切なのかもね。