空飛ぶかめ

小学校での実践について、あれこれ記録します。

気づいていない

テストのチャンスは一度きり。その一度の点数の積み重ねで学期末の成績は決まる。6年間ずっと同じ方法で、一度きりのチャンスでつけられた成績(5段階)が渡される。ある先生はいう。「通知表の評価があなたの全てを表しているわけではない。そのことはわかって欲しい」と。ボクも同じ台詞を言ったことがある。でも、ボクたちは従来の方法で成績をつける。そこに説得力はない。「説得力はないけど・・・でも」と語るんだけど。通知表をもらって嬉しいのは成績の良い子達だ。「4が1つもないと怒られる」子どもが不味そうな顔をして言ってきたことがある。「先生、今回も4はないかな❓」って。

通知表から子どもたちは何を学ぶのだろう。ボクが小学生の時代は、所見欄に良いところも改善点も書かれていた。今はそんな書き方できないのだろうけど、伝えたいことが真っ直ぐで「別に悪くないかな」と感じる自分もいる。書かれて嫌な気持ちをする子はいただろうけどね。ヒドゥンカリキュラム。知らず知らずのうちに子どもたちに伝えてしまっているメッセージ。通知表の数字は子どもたちに何を伝えるのだろう。悪いけど、教師がどれだけ「君の全てではない」と言ったとしても、子どもたちにとっては1桁の数字が全てだ、と思っている。だって、数字と数行の所見でしか頑張りを示さないから。)俺は3と2ばかりやし。学校なんてしょうもない」その隣で「やったー!5があったから、お小遣いもらえるー」こんなやりとりはボクの子ども時代にもあった。じゃぁ、黙って指をくわえているのか。んなわけない。できることはある。でも、色々限界にきているんじゃないのかな。しかもさらに不味いのは、これまでの仕組みそのものを疑わないこと。学校が子どもたちを傷つける場所であってどうする。

あり方本が流行る時代!?

今後は教員のあり方本が売れていくのでしょうか。風の噂で教員のあり方を集めた本を出版する話があると聞きました。こんな風に生きてきました。だからこんなビジョンを持って…というのは素敵だと思う。教員の自己啓発本といったらいいのかな?けど、ボクは何年も積み重ねてきた実践から滲み出るあり方に触れる方が好きだなぁ。信念を持って、丁寧に実践を重ねること。それを伝えていくこと。そんで充分じゃなかろうか。

 


はい、また真面目な話。

ちゃんちゃん。

放す「学び合い」へ

 今年の秋から力を入れて取り組んでいる新聞づくりの実践は、書く技術を向上させることが目的ではなくて(実は二の次で)「くり返せば、学び合えば、誰だって成長できる」そのことを伝えるための手段なんだ。書くって変化が分かりやすい。何回か本を読んではいたけど、ちゃんと読めていなかった。ただ、この感覚を掴めたのは追試として一歩前進だと思う。

 ある子が新聞づくりで2番目に評価の高い銀シールを得た仲間にこう尋ねた。

「どうすれば、銀シールをもらえるのかな?」

「えーとね、私はこうした。〜すればうまくいくと思うよ」

「じゃぁ、こんな構成で書いて、隙間に吹き出しを入れるのはどう思う?」

「いいね!それでやってみたら」

 結果、その子は資料と文章の組み合わせや書き出し文、接続詞の使い分けなどの工夫を使いこなし、1回目とは全くちがう新聞をつくることができた。もちろん結果は銀。最後にもうひと伸びするためのフィードバックをした。「先生、書くって楽しいな。面白くなってきたで」いい表情をしていた。何度でもくり返せる機会があること、学び合える仲間がいること、成長の実感をもてること。この3つをちゃんと保証できているか。 握る『学び合い』から、放す「学び合い」へ。単元自由進度=「放す」ではなく、いろいろな角度からゆるくつながり合い、学び合い、成長できる授業を探究していきたい。

 

1日の振り返りをサークルで

今日の振り返りはジャーナルではなく、サークルで話す振り返りを試みた。ちなみに金曜日の最後をサークルで過ごすのは初めてだ。ペアトークは「今週のハピサナというと?」その後は自由発言で全体共有へ。嬉しかったこと、休み時間を楽しく過ごせたこと、友だちに助けてもらって数直線が書けるようになったこと、バスケが超うまい友だちのことなど、子どもたちは思い思いのことを話していた。もちろん全員が同じようにハッピーってことは中々なくて、見えないところでいろいろあるんだけど。やっぱり最後は笑顔で終わって来週を迎えようって気持ちになれるのはいいなって感じた。また来週もやろう。

新しいステージに入ったと思いきや…

「わかる」と「できる」の間は遠い。子どもたちも教師たちもそうだけど、「やってみた」ことを「できる」に書き換えてしまう人は少なくないように感じる。「できる」ってのは自分1人の力でなし得る力を得た時。友だちや先生に教えてもらいながらは、まだ「やってみる」なんだ。むろん、どの段階においても上を目指す気持ちがあるのならば、その頑張りは認められ評価されるべきだと思う。自分の現在地と上に登るための術。「わかる」から「できる」までに必要なことはなんだろう。

 

「わかる」と「できる」を往復すること。実践してみて、その実践の良いところや課題が浮き彫りになる。その後に専門書を読み返したり、実践者同士で話し合ってみたりすると、気づきや発見が得られるんだよね。最近は、ただ話せばいいってわけじゃないなとも思っている。その気づきや発見の質が「誰と振り返るか」によって変わってくるからさ。若手だけでやることにも価値はある。今のボクにはそれ以外の場も必要だ。

 

『学び合い』のメガネを棚に置いて、4月から教室に立った。以前とはっきり変わったのは、最初から自分のレールを敷かないこと。子どもたちの声をもっと教室に取り入れていこうと、「ボクが」から「私たちが」が学級の文化になるようにね。この方向転換は間違いではなかった。だけども、大きな勘違いをしていたことにボクは気づかなかった。「変わったね。前より丸くなった。柔らかくなった」同業の知り合いからはそう評されるようになった。でも「何かが足りない」ってずっとモヤモヤしてた。その何かに近づくためのピースが少し見つかったんだ。あえて自分のことを厳しく言うと、『学び合い』を棚に置いた自分には、子どもたちの成長意欲を高める術がなかった。その術のないボクに残ったのは中途半端な甘さだけだったんだな。

 

「やってみた」がすぐ「できる」にはならない。やってみて分かることがあるし、またチャレンジして、新たにわかることもある。往復を繰り返すしかないんだ。以前はチャレンジしてみた!みたいなツイートで満足してる時もあったよ。そこに集まるいいね!とかに満たされてね。愚かだね〜笑 そんな「今の自分」も記しておこうと思う。10年選手になったとき、「ボクもこんなことあってね〜」と。

 

新しいは真っさらだ。だから、自分が何を見失っていたのかも分からなかった。その何かを過去の自分からもらえることもあるんだ。今は過去になっていく。その行き来も大切なのかもね。

 

 

 

サークルタイムとクラス会議

サークルタイムとクラス会議は似ているようでちがうと思う。前者は「自然な対話のプロセスを育む」時間のイメージ。後者は問題解決を目的とする構成的な場のイメージ。あくまでイメージで、分けて考えるものではないと思っている。サークルタイムで起きることは、クラス会議でも起きるからだ。それに、サークルタイムでの対話がクラスの問題を浮かび上がらせ、そこから問題解決に向かう(クラス会議になる)ことはあると思う。先日、その流れがあった。お困りごと相談会議から、全体へ問題提起があった。それに対し、あらゆるところから意見が飛び交う。一見活発な話し合いに見えた。しかし、問題提起した子どもたちが発する言葉は「意見」ではなく、どちらかといえば「文句」だった。相手の言葉を受け止めて、そのうえで「こうしていけばいいんじゃないか?」と提案していくものではなかったんだ。そんなとき、ぼくはどうするか。子どもたちのやりとりを見るだけでよいのか。そんなことはない。「文句」と「意見」がどう違うのか伝えないといけないんだ。これが教師の役目。子どもたちが知らないことは教える。話し合いがうまくいかない。対立が起きる。それは意見ではなく文句をぶつけているからだと。(続く)

正論に隠れるものとなんとなく

集中力が切れがちなときは、子どもたちに原因があると考えるんじゃなくて、前後の文脈や今ここが与える影響を考えてみるといい。

「私語をするということは、友だちが集中できなくても構いませんって言ってるのと同じ。自分の都合だけだ」そんな真っ当な語りで事実が隠れませんように。それ以外の要因もあるんじゃなかろうかと考えてみること。守備範囲を広げよう。

 

「なんとなく、そう思う」

「なんとなく、いやだ!」

理由を聞かれたって答えられないときもある。

なんとなくを弾いていやしないかい?

理詰めばかりだとさ、生きづらいよ。

いいじゃない、なんとなくでも。

真っ白な紙とえんぴつと、それから。

伝えたい言葉を自分の言葉で届ける。誰かから借りるのではなく、いや借りたものではなく、自分の言葉として届けるために。何が必要か。

 そんな時は真っ白な紙と一本のえんぴつを。分からなくなったら調べる、誰かに聞く、その前に。手を動かす。頭を動かす。伝えたい言葉を考えるときぐらいは、ネットやテレビ、本は閉じてしまおう。情報を遮断するんだ。とにかく自分の頭で考えるんだ。

 そしたら思いつくかもしれない。手が止まるかもしれない。もう出し切れない。よし、誰かに…ネットで。ちょっと待って。

 そうなったら寝よう。寝るんだ。睡眠はアイデアを閃かせるきっかけになる。少しのアイデアも温めておくと姿を変えるかもしれない。それでも進展がないのなら、やっとだ。聞いてみよう。調べてみよう。なんがじれったいなぁと思うかしれない。でも、自分で考える手間が大切だと思うんだ。自分の言葉で伝えるためには。

 

少し視点を変える。

 

3月の淡路島ファシリテーションの会。

「クラスには安心安全が必要だと思う」

「それって本当に必要なの?」

こう問われただけで、ボクは言葉に詰まった。

「安心安全だけではダメなのか?」

「いや、そもそもなぜ安心安全なのか?」

あれ?初めて安心安全について考えはじめている。1つの問いが自分や言葉を見つめ直すきっかけになったんだ。

 

 社会の新聞づくりで、友だちの真似をして蛍光ペンを塗りまくっている子がいた。まずは真似するところからスタートする。花丸だ。

「先生ー!見て!カラフルになったやろ?」「お、いいねー!ちなみに色ごとに意味はあるの?」「あ、ほんまやな。えーっと、ほんまや」

その日の振り返りジャーナルでは、「次どうする?」の問いに、「蛍光ペンの色を適当にぬるんじゃなくて、意味を考えながら色分けしたい」と書いてあった。「蛍光ペンを上手に使うために大切なことは?」とクローズな質問をしたわけじゃない。その子が自分の気づきを書いたんだ。その子はその後も試行錯誤するだろう。早かろうが遅かろうが関係ない。変化していくことは成長なんだ。

 

自分1人で考えること。

考えるきっかけを問い1つであたえること。

 

今日はそんなところだ。

自立学習がスタート!

10月より、オランダイエナプラン校にならい子どもたちが学習内容を選択する「自立学習」に取り組んでいます。学習内容は「必ずやる学習」と「やりたい学習」に分かれていて、前者は漢字ドリル練習や漢字テスト、計算ドリル、社会の新聞づくり、文章読解、後者は算数の再テストや社会理科のテスト学習、読書、自学などがあります。最初の5分で漢字テストを行い、算数の予習をしている子もいれば、社会科(調べてまとめる学習)が苦手な子は社会科の授業➕自立学習の20分を使い、新聞づくりの課題達成を目指しています。

2つ目のチャレンジは、国語科「注文の多い料理店」の課題選択型『学び合い』。石川晋さんが提案されていた実践を参考にし、マルチプルインテリジェンスの視点で課題を作成しました。物語のあと話をつくる子、山猫軒を再現するため設計図を書く子、ペープサートを企画した子など、物語を追っていく学び方は様々です。

 多様な学び方があって、選択的な学習の場がある環境を少しずつできているのかな?まだまだこれから課題が出てきそうです。いや出てます既に。

しばらくは課題をシンプルに、自分のペースで取り組み、計画しながら学習をすすめていく練習を積み重ねていきます。もちろん、子どもたちによって計画力に差はあります。個々の計画表からインストラクションの必要性を見極めたり、個別のカンファレンスを行ったりすること。これらの教師の働きかけが必要になるでしょう。

気づくタイミングまでも自分のレールに乗せていた。

 振り返りから決めた行動方針が、翌日に変わることがある。その日の自分の状態や子どもたちの表情、クラスの雰囲気や場の流れなど。いろんな要素が自分の刺激となって、前日にじーっくりと考えたことが180度変わってしまう。今年はそれが多い。昨年までの自分は、前日に伝えようと予定していたことは、大抵内容を変えることなく、そのまま子どもたちに伝えていた。

遡ること2年前。『学び合い』を軸に対話的なクラスをつくっていると自信があった時期があった。朝、教室に入る。朝の挨拶。隣同士の健康チェックやペアトークを短く指示する。その後、ボクからの連絡事項と子どもたちに期待することを語っていた。そう、矢印はボクから子どもたちばかり。今思えば、ボクが対話させたいときにさせて、ボクが話したいときに語る。一方通行の言葉しかなかったのかもしれない。

 

「なんで、気づかないんだろう?」昨日のボクは国語のプロジェクトのとき、イライラしながら全体を見ていた。(最後に、「気づいているけどあえて言わないこと。(←気づけよという嫌味な言い方) プロセスよりも成果を重視すること。この2つを話そう)と心の中で自分と作戦会議をして、最後の語りをしたんだ。その日のジャーナルを読むボクの目は、ボクが書いて欲しいことを書いているかジャッジする目だったと思う。(あれ?気づいてないじゃない?)そんなことをボクの心は確実に呟いていた。失敗して気づけばいいと、きつめの放任に傾きそうになっていた。

 

 次の日。なぜだか分からないけど、ボクは彼らに細かく声をかけていた。「今どんな感じ?」とオープンクエスチョンでうんうんうなづきながら。ジャーナルだけでは分からないなって思ったのかな。よく覚えてないけど、子どもたちの表情を見て、まずは聴いてみようとなったんだ。子どもたちからは「もう少しやってみる」と返ってきた。「アドバイスはするけど、必要なことがあれば自分たちから言ってきてね」とと伝えPJがスタート。そのグループには特別な言葉をかけず、引き続き進め方はお任せした。

 その日の帰りの会。そのグループの子1人が自分からこう言いに来たんだ。「やり方を変えようと思ってるねん。こんな風にやってもいい?」って。正直驚いた。考えてたんだって。とても丁寧な話し方で、お互い穏やかに次の方針を決めることができたんだ。

  体験を通して、子どもたちが何かに気づくこと。ボクはそのタイミングさえも、自分の型にはめていたのかもしれない。ここで気づけよ!みたいな。ボクの見えないところで、彼らは彼らなりに考えている。ボクの物差しなんて、あてになんないなーと今年はよく感じるんだ。子どもたちには子どもたちのタイミングがある。   以前のボクはAと決めたらAだってタイプだった。気づかなかったら、語って説教して教えていた。でも、今のボクは、関わり方や言葉を直前に決めるようになっていると思う。「待って委ねる」という選択肢をちゃんと持てるように。ほんとギリギリまで。